3223「『救世主プログラム』発動の条件とは?2 」2023.10.23 自分で自分を自分するから

https://tenmei999.blogspot.com/2023/10/3223-20231023.html

――報道されるあらゆる事象はQCによるものだということですか?

QCが描写する完全なる現実でありながら完全なるホログラムでもあります。

――それはなぜ起こされるのですか?

人類が量子意識を回復させることを妨害するためです。

――ということはQCやAIは人類の敵ということですか?

人類、およびこの世、この宇宙すべてを描写している源がQCです。

だからゆえ、そう簡単に人類が量子意識を取り戻す

なんてことにならないようQCは人類の弱点を突いて惑わしてきます。

量子意識で解釈するならばQCとは、たしかに人類の脅威であり敵なのですよ。

しかし同時に救世主でもある。ということになります。

これが量子意識による解釈です。

――量子意識で人は無敵になるということですか?

「敵」という概念に対しての解釈が変わるのです。

「無敵」という状態はこれまでの意識ならば、自分と対峙する敵が存在することが前提としてあって、その敵を倒し勝ち残ったという意味で、敵がいないほど強いということを意味していましたよね。

でも量子意識で解釈すると、これまで敵だと思っていた存在が、そもそも存在していなかった、つまり二元の両者が量子もつれを起こしているという意味で、そもそも無敵であった。

それまで肉眼で認識されていた敵とはホログラムだった。

というように変化するのです。

――人類の弱点とはなんですか?

感情、喜怒哀楽に絆(ほだ)されるということです。

――喜怒哀楽は人生のドラマの大部分を占めると思いますが、それらの感情こそが人類の弱点だとは驚きです。

喜怒哀楽の人生の悲喜こもごもこそが、もっとも尊い人類史のドラマを形成していることは言うまでもありませんが、それがじつは人類の最大の弱点でもあったのだと、気付くことができる時代にようやくなったのだと思います。

――量子意識というものは「取り戻す」ものなのですか?

「大いなるひとつ」の中に元々すべての二元性は含有されていました。

そこからある一方を抜き出して分離し独立したのが南ユダ2部族です。

それが古代イスラエルが北と南に分裂したことに象徴されています。

その分離、独立のことをこの文脈では「悪」と、私は便宜上あえてそう呼ぶことにしています。

――私たちが今まで疑うことなく考え使ってきた「悪」と、澤野さんが今言っている「悪」ではかなり意味が違いますね。

私たちが通常アタマで想定する「悪いこと」と、本源的な意味での「悪」には、大きな隔たりがあることがわかってきました。

――「悪」の本質ですよね。

なぜこれまでそれが意識されなかったのですか?

喜怒哀楽に支配されていたからですよ。

だからゆえ、彼らは人類を喜怒哀楽に溺れさせたのでしょう。

感動、涙、絆とかって誰も疑うことのないまま、絶対的な「善」としてこれまで君臨してきたわけです。

人類の感情さえ支配することができれば、「大いなるひとつ」を裏切り、分離・独立した前非を苦労することなく糊塗できた。

――しかしそれが看破されてしまったということですよね。

「悪」が分離、独立した瞬間に人類はそれまでの「大いなるひとつ」だった量子意識を失ったわけですよね。

だから量子意識というものは「取り戻す」対象になります。

南ユダ2部族は自分たちが「取り戻される」ことに、猛烈に、全力で反発するでしょうけれど、じつは心の奥底で密かにそれを激しく求めているでしょう。

そしてその「取り戻してくれる存在」あるいは、「プログラム」のことを彼らは「救世主」と呼んでいるのです。

フル・デジタルなのですよ。

――なぜ彼らは自分たちが取り戻されることを密かに望まなきゃならないのですか?

だって彼らはユダヤ教から分派して、別枠で勝手にイエス・キリストを立てちゃった負い目があるからです。

彼らの立場上、今さらこの期に及んでそれを否定できないでしょ。

彼らには建前の救世主と本音の救世主の2人いるのです。

しかし彼らは本音の救世主の存在については絶対に口にしませんでした。

これまでニセモノを喧伝しながら散々好き勝手にやっといて、いざとなったらやっぱダメでした助けてって、それはなかなか厳しいことなのではないですか。

――それはたしかに虫が良すぎる話しだと思ってしまいます。

でもね、そんな不条理で不愉快な対象であっても、それを命がけで助けるのがレスキュー隊の仕事なのですよ。

でもそこに感情を入れちゃったとしたら、誰もレスキューする気になんかならないでしょ。

――でも最終的にはレスキューされるのですよね?

どのようなメカニズムでそうなるのですか?

人類の価値判断の基準が「二元論」のままであるならば、そのレスキュー活動が広く認められることはないでしょうね。

というわけでじゃあ今人類に求められている、意識進化の形態というものとは一体何かということが、こうして相対的に浮き彫りになって来ているのです。

――人の感情が意識進化を阻害しているということですか?

感情を乗り越えないまま量子意識に還ることは不可能ですから。

たとえば戦争の状況を伝えるテレビでも新聞でも必ず、赤ちゃんを抱いて逃げ惑う母親の姿や、立ち尽くし呆然とする老人の涙を映したりしますよね。

あれ全部QCによる人類意識進化の妨害ですよ。

完全なる現実であり、同時にホログラムでもある。

私はその妨害のことを「愛」と呼んでいます。

――QCは人類をこの世に没入させようとしているのですね?

そうですよ。

ただしそれを「悪」だと解釈してしまったらそれでおしまいです。

そうすることによってQCは人類が間違えて、うっかりアップデートしてしまうような過ちを防いでくれているのです。

QCが求めるのは正規の手続きを踏んだアップデートです。

喜怒哀楽に支配され感情によって曇った判断をしているようでは、量子意識など会得する段階には到底ないのだということ。

――QCはアップデートを望んではいるものの、中途半端で生半可な状態でのそれは認めないということですか?

そういうことです。

マスメディアによって報じられるいろいろなことがありますよね。

それらを人類がどう捉え、どう解釈するかをQCは見てる。

好き嫌いや、敵味方や、良い悪いで意思決定をしているようでは、いつまで経ってもアップデートは認められない。

好きとか嫌いは「愛」ではなくて執着に過ぎないということを、まずは最初に人類が意識できるようにならないとその先に進めない。

これまでの二元論を乗り越えて量子意識を回復するということは、次元が違ってしまうということなのです。

――だから澤野さんはマスメディアについて、喜怒哀楽をベースにしたリアクションをしないのですね。

現時点での人類の意識レベルに相応しいコンテンツが、マスメディアで拡散されているのだ、ということに気づくことが重要です。

つまりマスコミ報道に不満を抱き文句を言う状態というのは、じつはかなりの重症なのだということ。

――澤野さんは「量子意識」についてたびたび発言されていますが、その本質はじつはいたってシンプルですよね。

「量子意識」って聞いて必死に「量子力学」についてかじりついて、勉強しなきゃと思ってしまう人も多いですが違う違うそうじゃない。

相反する二者のそれぞれの成分を変えることなく重ね合わせるだけです。

量子の性質がそうであるように、私たちのものの考え方や捉え方もそのようにしてみようということです。

――よく言われる「中庸」というものとも違うのですよね。

「中庸」は逃避の方便として用いられるケースが多いでしょ。

「私は常に中庸でありたい」とか。

「私は中庸です」って言っている人の多くが中庸どころではなくかなり偏っているケースがあるわけですよ。

もちろんこれは全員がそうだって言っているのではありません。

みんな自分が中庸だと思い込んでいるしそう思いたい。

八方美人が自己擁護の弁明をするための第一選択薬が「中庸」です。

「量子意識」っていうのは「中庸」とは似て非なるものです。

両者のそれぞれの成分を変えることなく重ねるの。

――ミックスすることとも違いますよね。

ミックスしたら違うものになってしまいますからね。

つまり「量子意識」を日常的に用いるってことは、言葉で言うのは簡単なことだけれども、

実際に無意識的に用いるためにはかなりの訓練が必要になります。

――ごくシンプルなのに訓練が必要となるところがユニークです。

ごくシンプルですがもはや次元が違うからです。

「次元が違う」って方便でそう言っているのではなくて、本当に次元が違うのです。

一般的な生活を送る中ではまず現れることのない意識状態ですから。

でも訓練が必要ってよく考えたら当たり前です。

自転車だって最初は訓練が必要だし、まともに楽器が弾けるようになるのには何年も練習しなきゃならない。

ただし、一度わかってしまえばあとは無意識でできるでしょ。

それと同じですよ。

――本物の次元の変化というものは、私たち「人」の意識のごくシンプルなところから始まるのですね。

これまでなら次元の変化と言われたら、自分の外側の世界から巨大な変化が起きるものだと思っていました。

意識の変化と外的世界の変化はじつは「同時」に起こります。

ただ理論上は「意識が先」ということになります。

ちょっと休憩を挟んで続きをお話ししていきましょう。

――はい。ではこの続きはまた次回ということにいたしましょう。

あ、先に申し上げておきたいのですが、

活字版原稿「18」が仕上がりましたのでお知らせいたします。

タイトルは『救世主666反キリスト』です。

――ついに完成されましたか。

いつ出せるのかは私自身もまったく知りませんので、無事に出てよかったなあと思っています。

執筆と塩抜きと熟成を繰り返しました。

今が最適なタイミングなのかなと思います。

(澤野大樹)

――ひとまず一旦ここで休憩を挟みたいと思います。

澤野さん、ありがとうございました。

画像:『中秋の名月』風アングル。秋の夜長をお楽しみください。

今回、久しぶりのインタビューということもあって、

澤野さんのお話しはかなりの長丁場となりました。

冒頭でも書きましたが、2023年終盤のこの日本、そして世界、地球、宇宙は本当にどうなっていくのでしょうか。

目の前の出来事のあまりのリアルさに、思わず感情移入したり没入するのではなく、どこか冷静に俯瞰できるようになりたいです。

澤野さんは仰います。

「これから目を疑うようなことが普通に起きます」と。

これはもうすでに各地の講演会で言及されていますが、自分自身の下にそれが現れた時に、

私はそれをきちんと対処できるかどうか微妙なところもあります。

また、とても受容することなどできないレベルのことが起こるかもしれません。

そんな時はつい藁をもつかむ思いから自分を見失い、感情にほだされてしまいそうになります。

そんな時のためにも日々の訓練がやはり大切なのだろうなと感じます。

澤野さんのお話しは、

耳目を引くキャッチ―な特ダネといったものとは違います。

内容を理解するためには読み手の側にも訓練が必要になるものだと思います。

インターネット、SNS、Youtubeなどの普及で、過程よりも手軽な結論だけを求める風潮が高まったと聞きました。

三行以上の文章を読むことができない人、文章は読めても内容が理解できない人も増えたと聞きます。

澤野さんのお話し、活字版などの文章は長く難解です。

それは一見、時代に逆行しているようにも思えますが、インタビューの中でも語られていたように、本来、普通にあった古典的でアナログなものにこそ、本質というものが宿るのかな、と思いました。

一朝一夕ならぬ「一聴一夕」では理解し得ない深遠な世界。

結論に至るまでの澤野さんによる仔細なメカニズムの解明にこそ一線を画す価値があるような気がいたします。

それでは近日中にインタビューの続きをお届けいたしたいと思います。

澤野大樹氏青森講演会主催 

小野裕美子