春の朝

村長のつぶやきといっても、村長も村役場の
職員も一人ですが。

春の朝、掃き掃除中になんだか目から涙が
ちょろちょろ出てきました。

一か月間,お客様の減った一階の喫茶店に
行きました。

一応の限を今週でつけようと思いながら
毎朝のようにお会いして仲良くなった
女性陣との会話中も涙がすこしずつ目から
出てきました。

フェイスブックはとても時間を取られて
気がそぞろになりますので、
すべて遮断させていただきました。

そしたらいっぱいやることが沸いてきて
幸せな毎日となりました。

こちらは続けているツイッターで釘本さんのアメブロがあって
クリックしました。

あたりまえの世界

飯島さんの「明日まで待って」に大笑いして。

らいぶゆうの真摯な記事に
また涙が溢れました。

今朝は目が海のような日です。

真理の光~その1  すべては光

平成5年ですから、今から27年前の11月、
広島のお寺にいました。
そこですでに故人となられたKさんの小太鼓の
響きにふれました。
そのときのKさんのお写真です。

川野政次さん.jpg
広島の方々に大変にお世話になりました。
実はその日は仙台からも大阪や名古屋からも
たくさんの方々が集まりました。
今年三月からのものすごいスピードでの出来事が
コレまで生かされてきて不明だったことへの
理解を深めてくれました。
「すべては光」
その日お寺の和尚さんからお聞きしたこの言葉はなんとなく理解しながらも不明でした。
光がすべてなら、元である神様も光、そしてその子でもある
人間も光、そして万物もまた光ですので、すべてがひとつであるのに
異ならないのです。
もしそのときの体験記事をお読みになりたい方は
こちらからどうぞ

今年の3月3日岡山にいました。
テネモスのKさんからのお誘いで、震災から加速した
オフグリッド(送電線網に寄らない、すなわち自前の電気)の
電気で自宅をまかなっている方たちの家を訪問させて
いただきました。
ただそれだけだったら、そうかで終わっていました。
でもそれだけではありませんでした。
岡山市内でのお寺で、その日集った人々に加えて
新しい技術で自前の電気を確保しようとする提案が
ありました。
そこからさらなる旅が始まりました。
「すべては光」の真の理解への旅でした。
今朝のお日様です。

太陽今朝.JPG

そして今朝の冴えた月です。

月」「.JPG

日も月も晴れても雨でも曇ってもいつもあります。

先をゆくもの

未到の領野をゆくものは
地図もなければ 相談者もない
競争相手もないが 目標もない

あたりは茫々の広野であったり
峻立の山であったり
絶壁の谷であったりする

しかし何遍も攀(よ)じながら往復し
まず自分の通れるだけの小径をつけ
それを足がかりに誰でも通れる道をつくる

そして新たな所を開拓し
豊富な土地をつくって命名し
そのうえ誰にも赴く興味をひくように
馴染をもたせなければ
自分がひとり紛れこんだのでしかないからだ

先をゆくものは
ただ自らの磁石を方向としつつ
自らのいちに溢れくる生命力だけで進む

だからいつその中途でたおれても
彼は自分の到った地点を知っている

         内山 興正 師

真理の光~その2 物質は何故固まるのか

光と原子.jpg
上の図は、光は物質の糊と言った浜松ホトニクスの会長さんの
ビジョンの中にありました。 またご著書もあります。
詳しくはこちらで。
浜松ホトニクスのビジョン
浜松ホトニクスといえば世界的に有名な光電管の企業です。
カミオカンデでの小柴さんの発見に貢献した光電管の
制作会社で、影のノーベル賞といわれました。

この会社の会長さんである畫間輝夫さんは物質の基本単位である
原子は原子核の+と電子の-で構成されているので、そのままだと
自然の法則で+と-は引き合って0になってしまう。
それなのに原子の単位がたくさん集まって物質としてなりたっている
のはその間に光が介在しているからだと言いました。
そして物質として固まるのは、その光が糊のような役割を果たしていると。

この四月から名古屋にレゴランドができました。
このレゴは原子1ケのようなもの。
レゴは人が力を入れてはめますと、どのような形にもなります。
人が光のようなものです。

「すべては光」  この言葉の意味が少しはっきりとしてきました。

畫間会長さんのお名前は興味深いです。
ひるまてるお さんです。
まるでひかりの化身のようなお名前です。
この方に影響を与えた方が、この国のテレビジョンの発明者
高柳健次郎さんでした。

高柳さんは後の静岡大学の最初の学生さんでした。
ラジオが電波で送ることができるのならば、映像もできるはずと
学長さんの支えもあって研究を重ね、ついに「イ」という画像を
電送することに成功します。
戦前のことでした。

金属に光が当たると1ケの電子が飛び出ます。(光電効果)
それを真空管で幾度も反射させ、真空管の底部では一ケが
1000万ケにもなります。

光はーーーガンマ線ーエックス線ー紫外線-可視光線ー赤外線ー
遠赤外線ー電波ーーーーとなり。
可視光線は光のほんの一部であり、波長はガンマ線のほうが
短く振動数は大きいです。

ガンマ線とエックス線と紫外線の一部は地上までには届かないようです。
見える可視光線を主に使って電気を集めるのが太陽光パネルです。
でも光一ヶで電子一ヶが太陽光パネルなのです。

もし電子一ヶが1千万倍になって、電圧(電気のダム)をつくり
電流となって流すことができたらエネルギー問題は解決します。

この現象の世界のエネルギーと言われるものはすべての
すべてを生み出します。
水も食料もです。

それが地球上にまったく平等に太古の昔から降り注いでいます。
実は夜も昼も雨の日も雪の日もです。

光は電波であり磁波です。(電磁波)
見えるものだけが光ではないです。

見えない光こそ大きなエネルギー(振動)を有しています。

まさに光は天照大御神ともいえるようです。

随想 伊路波村から67~エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から

和歌山県の南端に大島がある。
その島の東には灯台がある。
石造りでは日本でいちばん古い。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、
どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(逓信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」
灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。
あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

ぐぅぐぅわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。

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一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」
と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」
言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。
一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。
自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。
船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

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このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、
「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

 

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文・のぶひろ としもり
絵・ば ば  のりこ
(『生命の光 No.590』p.41-47より抜粋)

随想 伊路波村から68~秋が行く  041125

休日の朝。

駐車する路上への道すがら、
葉っぱが抜け落ちた銀杏の木を
車内から見上げる。
きれいだなあーーー。

娘と久々に 名古屋城の公園を歩く。

ほっとすることもなく、
歩き続けたママが少し病院で休憩中。

「ゆっくり休めよ。
何にも考えんで。
任せなさい。」

精一杯そんなふうに明るく言葉かけ。
細くなったなあと、足を見る。

ひとまわり小さくなった身体。
選択した人生の種類はあまりに違うけれど、
一緒に30年暮らした。

80歳のおばあちゃんは、
若妻のように若返った。
その背を除けば。

2世代の娘たちは自力で解決の道を探る。

我が家の秋は進んでいく。

今生の御縁に繋がれて

3月30日月曜日、11時30分の昼食の約束がありました。
待ち合わせの場所に出向くため10時30分に家を出る。

表に出ると雨が降っていて、
急いで家に戻り傘を傘立てから抜きました。
再び表に出る。
そこに一台のタクシー。
荷物を持っていたので右手の傘を上げました。

タクシーは急停車。
すこし斜めになって停まりました。

東和タクシー。名古屋で一番古いタクシー会社です。

運転手さんに行き先を告げて、急いで停めさせたお詫びをしました。
東和さんは、実の父親が勤めていた会社。
おそらく組合ができたての頃やる人がいなくて
組合長をしたのでしょう。おそらく初代。

で、運転手さんにいろいろ話しかけさせていただきました。
いつものように。

「運転手さん長いんですか。?」

「う~~んもう54年ですかね。」

「ベテランですね。東和さんはどれくらいですか。?」

「だからずっとです。」

「それじゃあ 森本っていう組合やっていた人
もしかして知ってますか。?」

「ええ!!」と驚かれて後ろを振り返らんばかりの運転手さん。

「知ってますよ、お話だけですが。当時私も15年ばかり
組合にタッチしていましたから、その当時の組合長さんが
よく森本さんのお話をしてくれました。」

運転手さんのYさんは生粋の名古屋人。
もう今年で76歳になられる。

父は生きていれば101歳。77歳で亡くなっている。

「あの森本の息子なんです。」

「はあ~~。それはそれは。」

「父のことお聞きできてほんとうに嬉しいです。
知って見える方のタクシーに今日このタイミングで
乗れるなんて。奇跡です。」

そう申し上げて金山駅で降りた。
運転手さんにお会いできたご縁をどのように理解したら
いいのか考えた。

今日はとても大切な食事会。
大恩ある方に今までの御恩に報いるための
セッティングだ。

食事会の終了時、短い口上を述べさせていただいた。

「もう何年前になりますか。ばらさん(共通の女性友達)とみなさんに
言い知れぬご援助をプライナスがいただきました。長い間そのご恩に
報いることもできない、恥ずかしい親でした。
それから2008年には奥様に長い文のファックスを送らせていただいて
そのころ泣かず飛ばずのEさんへのご援助をお頼みしました。

快く引き受けていただきました。
そのあとご主人もお声がけいただいて、それは
お断りいたしましたが、とても嬉しかったです。

そのあとあの地震があって、Eさんはものすごく
全国の注目を浴びました。
大活躍の時が訪れました。

今があるのはお二人のおかげです。」

もう胸が詰まって言葉にならず。
でもなんとかお二人にお告げすることができました。

今から続く若い力の平和と人道への願いと、もしかして
もうすぐかなうかもしれない新しい技術が世に出るときの
心からのご協力をお願いし、食事会を終えました。

父が後を押していたのかもしれないと、あとでしみじみ感じました。

ありようもない出来事。
そして「対面同席五百生」の教えが
皆様のお口から出て、出会いの不思議と
これからの希望が湧き上がりました。

心が喜びに満たされました。

このシーンはすでに1月に見えていました。
ありがとうございました。