随想 伊路波村から81~聖地巡礼・霊鷲山 050120

平成十年。
インド心の旅(ピュアハートホーム五十嵐薫様主催)に参加した。
マザーハウス、死を待つ人の家、孤児院等をたずねた。
そして訪ねたかったシャカにかかわる聖地巡礼の旅に出かけた。

ガンジス河の夕陽。そして翌日のガンジス河遊覧。
白いお尻がポッカリ川面に浮かびながら
流されていくのを本当にみてしまった。

ハイライトはシャカが弟子たちと共に
最も長期間修行に励んだ山、霊鷲山
(りょうじゅせん)だった。
朝早く、警官の警護のもと、まだ暗い山を登る。
ついそれより二ヶ月程前、五十嵐さんの友人がそこで盗賊に遭い、
いのちを落としたらしい。
五十嵐さんは涙ながらに語ってみえた。

山上、シャカが座して弟子たちに話をした場所につく。
日の出を待ちながら思い思いに岩の上で瞑想をする。
そして帰山の前に野外の祭壇前に全員が
列し、同行のBさん(仏僧)がお経をあげる。
簡単な聞いたことのないようなお経に反応してか、
皆が泣いている。魂が泣いているのだろうか。

この旅を通じて、五十嵐さんが「人間シャカ」(高橋信次:著)で学んだ
シャカの実像を訪ねた場所ごとに解説してくださった。
普通の観光の旅では得られぬ感慨をたくさんいただいた。
ありがとう。インド。
この日からインドはもう一度訪ねたい国となった。

ガリラヤ湖の153匹の魚

イエス様三度目の復活の場面。
ガリラヤ湖で網にかかった153匹の魚の意味を考える。
 
三で割れる数字の中で唯一の数の意味を勝手に理解。
全自然数の3分の一である3で割り切れる数の中の
唯一の特徴を持つ数である153。
これしかない。
 
父と子と聖霊の三位一体。
その三位一体の唯一の数とは、一人一人。
すなわち貴方様。?
一人一人が分離感をなくすようにとイエス様が数霊に込めた気がいたします。
 
ゼカリヤ書13・8-9
 
⑧全地はこうなるー主の言葉-
三分の二は死に絶え、三分の一がそこに残る。
 
⑨わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を精錬するように彼らを精錬し、金を試すように彼らを試す。彼はわたしの名を呼び、わたしは彼に答える。
わたしは言う、「これはわたしの民」。
そして彼は言う、「主こそわたしの神」。
 
 
ほとんど死んでいるかのように生かされる人々で
満ちている現代という時。
三分の一が分離感を解き放ち生かされた者と
なるかのようなイエス様の預言です。
 
 
こちらは現代のキリスト教とは無関係ですが。
イエス様の言葉は別次元と感じさせます。
 
名古屋ー豊田ー飯田と続く飯田街道
豊田ー飯田は国道153号線。
田ー田の「田田交産」新しい力を生み出すこと。
 
そして中部日本放送は1053キロヘルツの周波数。
 
日本の真ん中の不思議な数霊を思います。
 
数霊の遊びですが。

随想 伊路波村から83~憂きことのなおこの上に積もれかし–041118

昔の話ですが

例の熊沢番山が 番山の師 中江藤樹の話を
聴きに 片道8時間かかる山道を通いました。

そして毎日、1時間の講義を垣根越しに聴いていました。
塾のお金を払うことができなかったのです。

ある日、藤樹は垣根にいる番山を呼びます。
そしてたずねます。

「君はどこから来ているのかね?」
「山をこしたところです。」

「どれくらいの時間がかかるの?」
「片道8時間です。」

「そこでどなたと暮らしているのか。」
「母上とです。」

「そうか ではここに移り住みなさい。
丁度納屋があいているから、そこで
母上といっしょに暮らせばよい。」

しかし番山はこのやさしい申し出を断ります。

「せっかくですが、先生のお話を8時間かけて
聴きにまいっているからこそ、先生のお言葉のひとつも
聞き逃すまいと、真剣になれるのです。」

さすがの番山。藤樹先生はこのとき番山の
資質を見抜いたのです。

番山が読んだ有名なうたがあります。

「憂きことのなおこの上に積もれかし 限りある身の 力試さん」

このお話はずっとわたくしのこころの 中に
住みつづけています。

随想 伊路波村から84~高野山の秋 ~出逢い・縁~ 041111

平成13年11月6日夜、
愛知県豊橋市で用事が済んだ時刻が午後10時20分。
それから高野山へ向かう。約5時間はかかるだろう。

新郎Kさんと新婦Nさんの結婚式が翌7日に高野山で行われる。
その場に立ち会うためだった。

「さて、車中の長い時間をどうしよう。」と思ったとき、
ありがとう実験を思いついた。

小林正観さんの著書「幸せの宇宙構造」のなかにあったのだ。
「ありがとうを無感情に言っていても、1万回位言ったところで、
涙が出てくる。

その後、心から感謝のうちにありがとうが言えるようになる。」
いっそ、「ありがとう」より「ありがとうございます」でいこうかと決めた。
1分間で約50回言える。幸い人も聞いていない。チャンスだ。

豊橋にむかう車中で、1時間半。
そして高野山への道中で3時間半。
合計5時間「ありがとうございます」を唱えてみた。

後で計算してみたら、丁度1万回位のところで(約3時間半)眼から涙がにじんできた。
そして何もかもに感謝の気持ちで言えるようになった。

名阪道を数珠つなぎで走るトラックの運転手さん、
道路、樹々、山、そして風。月。つぎつぎに御縁ある人々の顔が浮かぶ。
人生の数々の出逢いの人びとが。

橋本市を過ぎ、運転手をも酔わせる20km程のグネグネの山道。
高野山にむけて、歩いたであろう、多くの人びとの想いがかぶさる。

敵も味方もなく、長い時間を人びとは高野にむけて歩いた。
恐ろしいほどの静寂が山中に横たわる。行き交う車も皆無。
戦国の武将たちや歴史上の英雄が死んだら
高野山へ葬ってくれと願ったその高野山。

弘法大師が開いたこの地に生かされた時間の
すべての想いを捨てて,敵、味方を越えてここに眠る人びと。
日本人って何だろうと不思議な国民性を想う。

走り続け、唱え続けて、7日午前3時20分。

浪切不動尊(空海が唐より持ち帰った仏像)を安置する南院前に到着。
不思議に疲れも眠気も感じない自分を知った。
素晴らしい体験だった。

午前6時、護摩焚きが始まる。きれいな炎が、
そして太鼓の音が参加者の眼と心に語りかける。

挙式は、Kさんの師匠M氏の仲立ちで行われた。
4畳半の小さな仏堂の中で、お二人は結婚の誓いを立てられた。
「お二人の行く末に幸いあれ」と念じていた。

高野山奥院を仏僧であるKさんが案内してくださった。
奥院の正面に向かって一番近いところ左側が天皇家ゆかりの御廟。

そして右側が近衛家の墓。その後方に、
何と元首相の池田勇人さんのお墓があった。

Kさんは言った。「池田さんは、大師信仰の深いお方だった。
病に冒されたとき、四国霊場八十八ヵ所を逆打ち(逆に巡ること)して、
病が治った。
そしてその後、常に数珠を
身につけながら仕事をし、首相にもなられたのです。」

昼の食事会の時刻となった。
料亭「花菱」の料理はとてもおいしかった。

またそして何より、集った御縁の人々の会話は天国の会食のようだった。
Kさんの師匠M氏は、来年より高野山の慣習によって
「身代大師」(弘法大師の身代り)を1年間お努めになる予定だとか。

M氏の書庫は、図書館のようだった。少し開いた扉から、
「小林秀雄全集」が微笑んでいた。

そんなM氏にたずねてみた。「今までで一番感じた方は誰ですか?」
M氏は、「それは、岡本太郎さんです。」と答えて、
「どこが感じたのですか?」の問いに、
「著者の紹介文を少し著書に書いてくださったので、
後日御礼を申し上げたら、ポカンとしていたからです。」(?)

こんなM氏はすべての話題を肩のこらないジョークでかわしながら、
雑談の中で多くの教えを下さった。

素晴らしい御庭と御堂。宿泊室。
そして密やかなおもてなしの心を感じさせる南院。

この日お祝いの気持ちからか、参加者の宿泊費一切を無料にされた
南院御住職Uさまの「慈」のこころに感じ。

新婦Nさんのご両親がすでにこの世にみえないことを案じ、
健在のご自分のご両親を式に呼ばなかったKさんの「悲」のやさしい想いを感じ。

「良かったね」「良かったね」を連発する参加者のYさんやIさんの「喜」の共感に歓び。

あるままに謙虚に今を生きる「捨」の「身代大師」M氏に学んだ一日であった。

「慈悲喜捨」Kさん、Nさんおめでとう。そして、ありがとうございます。

高野は歓びに満ちていた。

随想 伊路波村から82~折り梅 020501

人間は感動を求めて動く動物だろうか。

ロングランとなった映画「折り梅」を鑑賞した。
幼い頃、母と別れた老婆と、痴ほう初期でもある彼女と
ともに暮らす嫁を中心とした、家族の物語。

老婆は幼い頃の母との思い出を語る。
梅をいけながら子に語りかける母。
「梅はこうして折っても花を咲かせるのよ。
梅は強い花なの。」

町に働きに出ていた母はいつしか戻らなくなった。
砂浜で母を毎日まちわびる幼い日々。

大人になって結婚し4人の子供が授かる。
だが早くにご主人を病気で亡くす。4人の子供を
おはりこの仕事をしながら、生活保護も他人の世話も
受けずに、育てた。
(そうだうちの母もそうだったんだ。)

自分のライフスタイルを必死に護ろうとする嫁。
老婆は必要とされていない自分の存在を
知る。

限界がきて老人ホームに行く前夜。嫁は老婆とともに寝る。
そして幼い日のことを知る。
老人ホーム行きはやめていた。

デイケアのお寺で老婆の発表。
「あそこに座っているのが、うちの嫁です。
ほんとによくしてくれるのに私は怒ってばっかりいて、
なんでそうしてしまうのかがわからない。」

嫁と老婆のハンカチの投げあいはまさに心が溶け合う
瞬間。笑い嬉し涙とはこんなこと。

だれだって自分を大切にしてもらいたいんだ。

随想 伊路波村から85~ポックリさん 

名古屋市の東南に八事興正寺というお寺がある。
通称ポックリさん。

昨夜、友人でもあり同業者の社長でもあるMさんの
お母さんの通夜のため、車で葬儀場へ向かう道の途中、
そばを通って、思い出していたことがある。

11/7 は家内の誕生日。その数日後 ハンケチの入った
タンスの引き出しを開けた。

そこに 一通の封筒。表書きはM子さんへ。
家内にあてた おばあちゃんの字。

なにげに 中を見てみた。

中には数枚の福沢諭吉さんと おばあちゃんからの便箋。

「いつも 家のことや会社のこと そして子供たちの世話など
たくさん 世話をかけて ありがとう。
いまのところ私たちは 身体の面倒をかけずに済んでいて、
安心しています。
これからも 迷惑かけないように ポックリいくように
八事に毎月おまいりに行きます。
からだに気をつけて 頑張ってください。
少ないけれど、 なんでもいいからこれを 自分の好きなことに使ってください。」

82歳と78歳のおじいちゃんおばあちゃんコンビは健在だ。
母親の実の娘を思う 気持ちが伝わってきた。

養子となって もうすぐ26年がたつ。
実の父母との関係の期間にもうすぐならぶことになる。

丁度26年前 おじいちゃんの先代の意思を継続するために、
新しい会社がスタートした。
だから ふらふらの事実上の3代目。

この26年間で絶頂と大谷間を経験することになった。
その間本業にいそしむ間は ほとんど事業に口をはさまず、
お金の心配をまったくかけずに、事業に邁進させてくださった
おじいちゃん。

娘や孫には口うるさく映るらしいが大事な時には、いかんなくフィクサーぶりを発揮してきたおばあちゃん。

たいした病気もせず、ここまでふたりで元気に生きてきた。

世の中の変化とともに 事業家にとっては 事業の舵取りが
楽しくも難しい問題となった。

そしてふくらんだ全てのものを 健全にしぼませ、健康体となって、
新しい企業として再出発をすることが、事業家の命題となった。

結果として残された負債は 事業家の責任によって零にすること。
この当たり前のことが できていない世の中なのだ。

そのツケはこの国の人々が 負うことになる。

「意識のネットワーク」などは 父母にとってはまったく関心のないこと。
それよりなにより 健康で安心して 家族みんなが仲良く、きちんと
生活して欲しい。そしてひ孫の顔を 見れるなら見たい。
それが老父母の ささやかな願いなのだろう。

この8年 会社は0かマイナスを繰り返した。
累積した負債は会社のためにはもちろん少ないにこしたことはない。

今年 個人的な会社への貸付金の一部を 放棄することにした。
そのことをすでに退役していて 債権者でもある老父母に告げた。

その数日後 父母から 話があるといわれた。
茶の間で おじいちゃんが おずおずと語る。
「この前聞いたことだけど、私たちの貸付金全部
もういいよ。 お前たちは若いのだから そのままに
しておけばいい。」

なにか仕事のことで 意見があるのだろうとばかり思っていたので、
ポカンとすると同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。

「ありがとう。 お客さんも 社員さんも 救われます。
新しい企業のかたちは もう見えつつある。
きっと安心してもらえる時が来るからね。」

そういうだけで せいイッパイだった。

実は時代はいままでの企業のあり方を 欲していないかもしれない。
そして利益と成長と安定が企業の大方針だったのだが、
むしろ与え合いが基本になり いのちに共鳴する企業だけが
存在を認められるかのように感じる。

私たちが どんな時も輝いてあること。
そして老父母に迷惑をかけず 安心して暮らせる空間を
保つこと。 そんなことが人生の終盤を迎えた父母に
たいする ご恩返しであり 親孝行なのだろうか。

ポックりさんの急な坂道。

支えあって生きてきた父母が、ほっと息つく場所かも知れない。

随想 伊路波村から86~日本人のこころ~ 041109

日本人のこころ ~五木寛之さんのお話から~

名古屋商工会議所創立120周年記念講演会。
作家の五木寛之さんが講演者だった。
500人の聴衆の前から3分の1程の真ん中に座った。
聴衆はほとんどが今を生きる経営者の男性の方たち。
後頭部がかなり薄くなっていて、まるでお月様がいっぱいのようだった。
チラホラと五木ファンの女性がみえる。
「蓮如」「大河の一滴」等で、現在話題の五木さん。
最近は、お寺とか、集会所でもお話しをされるらしい。
以前とはとても変化しているようだった。

演題は、「日本人のこころ」。近著と題名が同じだ。
四日市のUさんが、「五木さんのお話いいですよ。」と言ってみえた。
それだけに、久しぶりの講演会に心が躍っている。

お話しは、経済状況に苦しむ経営者という戦士にとって、
おそらく、ずっしりと重いものだったろう。
「暗愁」という明治以来、昭和初期の永井荷風まで、
頻繁にもてはやされたこの日本語。今は、死語となっている。

人は、誰でもがいいようのないやるせなさにいつか襲われる。
こつこつと働いて、2~3の工場を持つ立派な経営者。
美しい妻とかわいい子供たち。そして恵まれた生活と、
経営者としての自信に溢れている。何も不満がない。
「幸せだなあ俺は。」と日々思っていたこの経営者が
ある朝突然にこの「暗愁」という暗い虫に襲われる。

あんなに美しいと思っていた妻を見て、何故こんな女と一緒にいるんだろう。
子供たちなんかちっとも可愛くない。ウルサイだけだ。
この豊かさなんか一体何の意味があるんだ。

自分が信じて歩いてきた道のすべてのものが
意味なく思われるこの「暗い虫」。
人間はだれでもいつかはこの「暗い虫」に襲われる・・・。

ここまで聴いて、左斜め前の女性が泣き崩れた。
共感がこちらの胸にも伝わる。
まさに現状の人たちをやさしく包み込むかのような言葉だ。

韓国の言葉に、「恨息」(ハンスン)という言葉があるらしい。
「恨」とは、世にいう恨みという意味ではない。
それぞれの国のもつ歴史。そして、祖先のすべての想いが「恨」。
それをフーッと吐くため息。それが、「恨息」(ハンスン)。

「暗い虫」に襲われて、「暗愁」の気になったら、
何も思わず力を抜いて、「恨息」するがいい。
私たちには、誰でもそんな時があるのだから。
そんな時、もがくのはやめよう。と五木さんはおっしゃった。

日本は、現在のデフレも経済危機も同じようなことを歴史上で経験し、
いずれの時も乗り越えてきた。
ただ、歴史上経験のない現象が現在、ひとつあらわれている。
それは、年間3万3000人という自殺者がいるという事実だ。
交通事故死者10000人弱。
あの15年間におよぶベトナム戦争の米兵の死者数が、
5万人強。それに比べて、3万3000人という自殺者を何戦争と呼んだらいいのか。

五木さんの知人の若い方が、ある日五木邸を訪れた。
「先生。僕、いったいどうなるんだろう。今の社会はどうなるんだろう。」と語り、
東京の中央線での車中のできごとの話となった。

電車はゴトンという音をして、停車した。
しばらくして、車内アナウンス。
「事故のため、現在停車しておりますが、只今上半身を除去しました。
下半身の除去が済むまで、今しばらくお待ちください。」

アナウンスを聴いて、車内のほとんどの人が一斉に同じ行動をとった。
みんな腕時計をみたのである。
そういう自分も確かに腕時計をみていた。
あとで、そのことに気づいた。そして思った。
「俺はいったい何なんだ。自殺者のことを祈ることもなく。
日常の普通のこととして、みんなと同じように何ごともないような行動をとる。
この日本社会は何なんだ。日本人のこころはどこへいってしまったんだろう。」

若者の心はまだ救われるだろう。そして日本人のこころをこの彼が、
まだ持っていることに安らいだと五木さんは話された。

阪神大震災で日本人は物のはかなさを知った。
サリン事件で、宗教や心の脆さを知った。どちらにもいけない不安感の中、
世の中は「情報」という新しい夢を持った。

五木さんの語る「情報」とは決して世にいう計数、形、宣伝ではない。

それは情報のほんの一部にすぎない。

万葉時代。「情」という字を「こころ」と呼んだ。
新しい時代の「情報」とはすなわち、「情を報ずること」。
こころを伝えることだという。私たちは、こころを伝えあいながら、
新しい時代を切り開く時期に来ていると結ばれた。

思わず「そうだ!」と立ちそうになった自分がいた。
五木さんのお話を多くの方が聴くことができますように祈りを込めて。

随想 伊路波村から87〜 気づき

「若くして千日回峰行をした方が
仙台にみえて、その方と一時間半ほど
お話できました。」と、なんだか感激した友人からの電話。

なにか参考の本があるとおっしゃるので、
送ってくださいと頼んだら、すぐに届いた。

塩沼さんというその方と板橋禅師さんとの対話本。
自分としてはめずらしくすぐに本を開く。

そして一気に7割ほどを読み終えて、翌日
すべてを読ませていただいた。

19歳の若さで、すべての方がそうであるように
導かれる人生へと船出していった若者の
目指す先は修験道の極致である千日回峰行と
四無行(寝ない、食べない、伏せない、飲まない)。
高野山、金峯寺での行生活が待っていた。

それを体験され、現在39歳の塩沢さんは、仙台の方。
母と子ひとりだけの幼少期の貧困度合いは
この時代にあって物凄いものだ。

板橋さんとの年齢差は30歳以上。
その板橋さんがとても気になったお人が
塩沼さんだった。

ご本の最後のほうだった。塩沼さんは語った。
「大変な行をして、悟ったかに思われるでしょうけれど、
ちっともそうではありません。
どうしても好きになれない人が高野山にみえたのですが、
行を終了してもやはり気に入らないのです。」

そんな彼が仙台から年に一度の高野山詣でを
した日、たまたまその方とすれちがう。

そしてやっぱりなんだか気がむかないのだけれど、
こんにちはとあいさつするが、むこうはつっけんどんな感じ。
それで「仙台からきたんです・・・」と続けるのだが、まだ無関心なようす。
さらに「これおみやげです・・」と
手渡すと・・・そのとき、すこし相手と気が通じたかに感じる。
そして彼は大きな感慨を味わう。

自分が拒否していたんだという、自分の器が
ちいさかったんだとおおきな反省をするのです。
こんな超人的な行を終えた方でさえ
この世の人間の気持ちを越えることはむつかしい。
すべてを愛する大きな気持ちをどうしたら
もつことができるのだろうか。

もしかしたらそのことを試されるのが人生なんだろうか。
涙がボロボロでてきました。

今朝娘が言いました。
「Mさんに、病院で物凄くお世話になったのに、私あのひとの
ことを嫌いなだなんて思ってしまった。
レントゲン室に連れて行ってもらった時、
とても親切にしてもらったのに・・・。
嫌いだなんて・・・。」
と泣くのです。

この本のくだりを読み聞かせました。

「こんな大変なことをされた
お坊さんでさえ。嫌いな人がいたんだよ。
だから気にしなくていいんだよ。
できるだけでいいから、なるべくみんなが
好きになれるといいよね。」

できない自分を見ていました。