ラマナ・マハルシとの対話より 31ー4 ヴァーサナー(心の潜在的傾向 自我)

・・つづき

 しかし私は言いました。「どうしてそうありえるでしょう?ヴァーサナーは真我とともに在り、けっして真我から離れて在ることはできません。もしあなたが言うようにハートが真我の座で、ヴァーサナーが脳に含まれるというなら首を断ち切られた人はヴァーサナーから解放され、転生はありえないということになります。それが不合理であることにはあなたも同意するでしょう。だとすれば、真我がヴァーサナーとともに脳の中にあると言えるでしょうか?もしそう言えるとすれば、人が眠り込むとき、どうして首をがくりと落とすのでしょう?しかも自分の頭を指さして「私」と言う人などいません。こうしてみれば、真我がハートの中にあり、ヴァーサナーも極度に微細な姿でそこにあるということは明らかです。
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2513「大峠を越えるために」2021.11.11 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年11月05日の記事を紹介します。

「大峠を越えるために」

江戸後期から明治にかけて一斉に日本で起こった霊的な磁場、鼓動。

そこでは人類にとっての大峠、時代がぐれんとひっくり返る

など近未来に対して様々な予言が語られています。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー5 この集中は・・

・・・つづき

 この集中は聖典の中でサンヤマナ(自己抑制)と呼ばれています。人の欲望はこの過程を通して満たされるのです。。それはシッディー(超自然力)と呼ばれています。これがいわゆる新発を起こす方法です。この方法によれば、世界を創造することさえできます。サンヤマナはあらゆるシッディへと導きます、しかし自我が生き残っている間、それらが顕現することはありません。ヨーガによる精神集中は体験者(自我)体験、そして世界の破壊をもたらします。この集中は個人に新しい世界を創造する力を与えます。そのとき、かって存在していた欲望は、気が熟すとともに満たされるのです。この集中は個人に新しい世界を創造する力さえ与えます。
 そのような能力を所有しない者たちにとって、それは素晴らしいものにみえるでしょう。それでも、それは一時的なはかないものでしかありません。はかない物事を追い求めるのは無益なことです。この世のありとあらゆる不思議は一なる存在である不変の真我の中に含まれているからです。それゆえ、世界は内側にあり、外側にあるのではないのです。この意味については「シュリー・ラマナ・ギーター」の第五章十一節と十二節に述べられています。

「2」「シュリー・ラマナ・ギーター」の第五章十一節と十二節
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2512「祈り」2021.11.10 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年11月04日「祈り」と2021年11月06日「シリウスと瀬織津姫」の2つの記事を紹介します。

「祈り」

今日は、渡辺和子さんのお話を通して、神さまは、どうやって人間の祈りに答えてくださるのか、考えてみたいと思います。

<引用開始> 引用元

・もし私が祈ったことが全部叶えられたら、どうなるのだろう

・神様のお役目というものは、人間の願いを全部叶えることなのだろうか

・いくら祈っても、所詮(しょせん)神はご自分の好きなようになさるのだとしたら、

祈っても、祈らなくても同じではないか

その上で渡辺さんはイエスの言葉を紹介します。

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「益田磐船」についての一考察

令和3年10月8日に始まる静かなる
旅は、奈良の橿原神宮(神武天皇)から車で
10分ほどの距離にある「益田磐船」から
始まりました。

16日家から真西にあたる多度大社への
参詣に続いて、空海最後の結界最南端に
スポットで住いされるk女子の来社ご訪問が
ありました。

その日が10月18日。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー6 

・・・つづき

「3」これがバンヤンの木の種子の説明・・
ウッダーラカ(父)は言った。
「バンヤンの実をそこから持ってきなさい」
シェヴェータケート(息子)
「父上、ここに持って来ました」
父「それを割ってごらん」
息子「割りました」
父「そこには何が見えるか?」
息子「小さな種子です、父上」
父「その一つを割ってごらん」
息子「割りました、父上」
父「そこには何が見えるか?」
息子「何も見えません、父上」

父は言った。「息子よ、お前に見えないこのごく小さな種から、この偉大なバンヤン(木)は現われ、ここに生い立っているのだ。息子よ、私の言葉を信じるがいい。「種子とは「それ」であり、この世のすべてのものは「それ」の表現なのだ。」「それ」が「在るもの」であり、「それ」が真我である。シェヴェータケートゥ(息子)よ!お前は「それ」なのだ」

 その源はいかなる次元も、規模も、領域も持たない点です。それは一方では宇宙として拡張し、もう一方では無限の至福として拡大します。その点が中心点なのです。そこから一つのヴァーサナー(自我)が現れ、体験者である「私」、「体験」、世界として拡大していきます。
体験者と源についてはマントラの中に言及されています。まったく同じ姿の二羽の鳥が同時に顕れるのです。
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