2533「死後直後の問い」2021.12.1 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年11月24日の記事を紹介します。

「死後直後の問い」

今日のテーマは、私たちが亡くなった直後の問いについてです。

以前書いた記事ですが、ここ連日ご紹介している山幸彦(ニニギノミコトの子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))の魂を持つ、6歳のトキ君の情報とピッタリと一致しているため、加筆修正して掲載します。

この記事は、産婦人科医の池川明先生のお話からなのですが、全く出所が違うのに神さまの意識を持つ6才の男の子から、全く同じ情報がもたらされるとは驚きと言うか、真実であると判断するしかありません。

このお話の中で、天国のレベル6と7の間には、大きな隔たりがあるということですが、

6までは、あまり空間的、次元的な移動の自由がない束縛されたコミュニティに属している。

7以降は、空間的にも次元的にも移動の自由がありほとんど束縛が無い状態・・ 

と言うことだと思います。

まずは、池川先生のお話です。

<引用開始> 引用元 

臨死体験をされた方々の複数の体験によると、死後に閻魔様(えんまさま)から聞かれるのは、次の2つのことだけなのだそうです。

・陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人のために役に立ったか?)

・自分の人生を楽しんだか?

池川先生によると、この2つの質問の真意について、

「自分の人生を楽しんだか?」という質問については、

「身勝手に、自分ひとりで快楽を得たか」というものではなく、

「人に感謝され、認められて、自己肯定出来て楽しかったか?」ということではないかと。

そして、「陰徳を積んだか?」という質問においても、

「自分が一生懸命生きていることで、結果的に知らぬ間に人が助かったか?」ということではないか、と語られています。

この陰徳を積む、という行為の例として、こんなお話が紹介されていました。

(「ぼくが生まれてきたわけ」より 一部抜粋)

ある小学生が、学校から帰るとき、荷物をたくさんもった同級生とぶつかって、その荷物を落とさせてしまった、と。

その同級生は、同じクラスの子だけれど、ほとんど話したことがない子で、その小学生は荷物を一緒に拾いながら、「君、どうしたの?」と声をかけた、と。

すると、「家にかえるところだ」と言うので、ふと、「じゃあ、うちで遊んでいかない?」と誘ったそうなのです。

で、その同級生は家へ来て、テレビゲームをやって帰っていった。

それで、ずっと後になって、荷物を持っていたその子が、誘った子に、「君はぼくの命を救ってくれたんだ」と言ったそうなのです。

何でかと言うと、あのとき、荷物をたくさん持っていたのは、自殺しようと思っていたからだ、と。

自分が自殺して、学校の机に自分の荷物が残っていたら、次に座る子が迷惑すると思って、それで全部片付けて、荷物を全部持って帰っているときに、君とぶつかったんだ、と。

君とは話したことがなかったけれど、君が声をかけてくれて、君とテレビゲームをしたら、楽しかった。

それで死ぬのを踏みとどまったんだ。

この場合、お礼を言われたほうは、助けたっていう意識はないんですよね。

ただ、ぶつかったから荷物を拾ってあげて、ふとゲームに誘った。

おそらく、こういうのが陰徳なんだと思う、と本の中では語られていました。

良かれと思って自分がした行為が、必ずしもその人のためになっているとは限りません。

そのようなことは、世の中によくありますよね。

ここがなかなか難しいところです。

相手を尊重して、よくよく自問自答してから、手を差し伸べるべきかを決めることが重要です。

つまり、人の役に立たなきゃ!と思って、誰かを助けてあげることを目的にするのではなく、

結局は、自分が一生懸命に生きる!  

お天道様に恥じない生き方をする!

ということに尽きるのはないか、と池川先生はおっしゃっていました。

<引用終了>

私たちが、この肉体を脱いで、天に帰る時にされる質問は、たった2つ

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

なのだそうです。

山幸彦の魂を持つトキ君が言うには閻魔様に質問されるのは2つ

・あなたは人に優しくしましたか?(=陰徳を積んだか? と同じ)

・いっぱいあそびましたか?(=自分の人生を楽しんだか? と同じ)

驚くことに、池川先生と全く同じです。

そうであれば、今の今、生きている間から、そのことを意識して生きていれば、閻魔さまにも、褒めてもらえるかもしれません。

閻魔さまは、よく怖い鬼のように描かれていますが、実際は光そのものの神様だそうです。

また池川先生は、多くの生まれる前の記憶を持つ子供たちのお話から、こうも仰っています。

病気や障害を持った多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、たぶん、「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。

そしてつらい思いをしたからこそ、同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。

つらさのただ中にある人は、実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。

なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、苦労する必要があるのかな、とも思います。

実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、食べようと思えば、いくらでも食べられて、

ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、この世に生まれてくるようなのです。

楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので…

それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。

そういった意味では、この制約の星、地球での、病気や障害など辛く、悲しい経験も、

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

上記を達成するために、とても重要な環境なのかもしれません。

またもぅ一つ、トキ君の情報として重要なことがあります。

私たちが、「人のために・・」と我慢をして自分のワクワクを殺し、自己犠牲ばかりしていることを神さまは「善し」としない・・と言うことです。

私たちは「人のために」、「良かれ」と我慢して自己犠牲を行い、そんな自分を自己賛美をしがちですが、自己犠牲の精神は、地獄行の要素でもあるのだそうです。

私たちが生まれる時、地上で何をするか?何を楽しんでくるか?

神さまと約束してきます。

神さまも「楽しんでおいで」と送り出してくれました。

そうであるのに・・・

自分の楽しみを我慢し、押し殺しやりたいこともせずに、地上の人生を終わることを

神さまは決して 正しいこと とか、良いこととは見てくれないということです。

全く逆の評価を下されます。

私たちは周りの人たちと仲良く助け合い、 そして楽しむためにこの地上に降りてきたからです。

私たちが、ニコニコして生きていることが神さまは一番嬉しいからです。

皆さんの心が、どんな時でも、感謝の気持ちで満たされ、神々の恩寵を受け取れますように。