「癒しと贖罪はどのように関連しているか」
癒しと贖罪は関連しているのではなく、同じものでしょうか。
この世界では可能な唯一の完全な概念です。
それが完全に統一された知覚の源でもあります。
天国の中の特別な区域としての地獄というものは
考えられません。「癒しと贖罪はどのように関連しているか」
赦すことは癒すこと。
“再録 奇跡の道 その118~癒しと贖罪はどのように関連しているか” の続きを読む
さまざまな情報をお届けしています。
「癒しと贖罪はどのように関連しているか」
癒しと贖罪は関連しているのではなく、同じものでしょうか。
この世界では可能な唯一の完全な概念です。
それが完全に統一された知覚の源でもあります。
天国の中の特別な区域としての地獄というものは
考えられません。「癒しと贖罪はどのように関連しているか」
赦すことは癒すこと。
“再録 奇跡の道 その118~癒しと贖罪はどのように関連しているか” の続きを読む
友情の最も深く感ぜられるのは、何といっても道を同じくし、師を共にする同門の友との間柄でしょう。というのも、そのときそこで語り合う問題は、決して単なる世間話ではなくて、常に人生の問題であり、道の問題であるからであります。したがってまたそうした友人と会うことは、自分の生き方の上にも、常に新たなる刺激と力とを与えられるわけであります。
〇
そもそも友人関係というものは、師弟の関係を仮に縦の関係とすれば、まさに横の関係ともいうべきであって、師から受けるのとは、またおのずから違った面を教えられるものであります。たとえば師弟の関係から絶対的なものを教わるとすれば、友人関係からは、人生の相対的方面を教えられるとも言えましょう。
〇
哲学においても、真の絶対は、相対の面を含んで初めて真の絶対であるといわれるように、この真理は、師弟朋友というような、人生におけるもっとも具体的な関係の上にも当てはまるかと思うのです。すなわち師弟の道は、それが絶対の道として、大切なことは申すまでもありませんが、しかし単なる師弟の道だけで、その上さらに友人の道が正しく履み行えないというのでは、その人の人柄の上に、まだどこか至らないところのあることを示すものと言えましょう。
かように考えてきますと、友人関係というものは、ある意味では師弟関係以上に難しいとも言えましょう。すなわち真の友人関係には、ある意味で師弟関係の仕上げとも言うべき面があるからです。
https://tenmei999.blogspot.com/2021/12/254820211216.html
今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月11日の記事を紹介します。
「イエスの魂」
さて早くも師走12月。怒涛の年も最後の月です。
世の中は急速に変化し続け、神さまと、悪魔的な存在とのせめぎあいも続いているようです。
今日はせっかく12月、クイリスマスの月ですからイエスの魂の遍歴について、物語(フィクション)を載せようと思います。
熊ちゃんの笹の炭の浄化能力とケイ素と
テネモスさんのビダせっけんを合作できないか、
この数か月にわたって、さまざまな試行を
繰り返しました。
その結果、ビダせっけんのしっとりタイプと
笹の炭との融合のものが上梓されることに
なりました。
なめらかさが増し、匂いも素的になりました。
プロのかたにも実験中から何度も試していただいて、
とても満足していただけるせっけんとなっています。
みなさまのお役にたちますようにと
願っています。
「神の平安とは何か」
神の平安は、まず、一つのことによって
認識されるようです。
それは、これまでのすべての体験とは
あらゆる点において全く違うと認識されますね。
「それ以前に起ったことは何一つ、心に喚起されることはない。
過去はただ消え去り、その代わりに永遠の静けさがある」
“再録 奇跡の道 その119~神の平安とは何か” の続きを読む
真の叡智とは、自己を打ち越えた深みから射してくる光であって、私たちはこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知り得ないのであります。そうしてかような反省知、自覚知を深めていくことによってわれわれは、万有の間における自己の真の位置を知り、そこに自らの行くべき大道を見出すことができるのであります。
かくしてわれわれ人間が、天地宇宙の間に生まれ出た一微小存在としての人間の道は、このように、天地を背景として初めて真に明らかとなるのであり、さらには天地の大道と合するに至って、初めて真の落ち着きを得るわけであります。
〇
人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。単に受け身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もありません。
〇
自分が躬をもって処理し、解決したことのみが、真に自分の力となる。そしてかような事柄と事柄との間に、内面的な脈略のあることが分かり出したとき、そこに人格的統一もできるというものです。
〇
死後にも、その人の精神が生きて、人々を動かすようでなければなりません。それには、生きている間、おもいきり自己に徹して生きる外ないでしょう。