2528「生まれながらの神様」2021.11.26  自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年11月20日の記事を紹介します。

「生まれながらの神様」

今日は「努力しない生き方」というお話です。

私たちは子供のころから努力しなさいそう教わってきましたから、例えば、子供が不登校になったり、病気したりすると、途端に不安に陥り右往左往してしまいます。

それはまるで

・競う

・争う

・比べる

のですね。

それに対して、

・競そわない、

・比べない、

・争わない

生き方と言うのもあります。

今日は小林正観さんのお嬢様、慶子ちゃんのお話をご紹介します。

慶子ちゃんは知的障害で生まれてきました。

<引用開始> 引用元

ニッコリ笑っていてくれるだけで、まわりを温かくし、光を発している知的障害児の長女。

ここに人間の価値がある。

結婚して三年目にやっとできた長女は知的障害児で、努力や、がんばることができません。

二十七になりますが、知能でいうと七歳くらいです。

日常生活にはなんの問題もありませんが、自分の名前を漢字で書いたり、足し算、引き算をしたりなどはできません。

しかし、この子は、自分より立場の弱い人、怪我をしている人を見れば、駆け寄って『大丈夫?』と手を貸すような子どもで、教えられることがたくさんありました。

小学校四年生までは運動会の徒競走が五十メートル、五年生と六年生は百メートルでした。

長女は小学校五年生まで、徒競走はずっとビリでした。

染色体の異状により、脳細胞や体の筋肉が普通の人の三分の一くらいしか発達しないため、

ものをもったり、走ったり、歩いたりなど、なにかをする能力は三分の一くらいしかありません。そのため、走るというより速歩きという感じです。

小学校六年生のとき、運動会に行く前、なぜか妻がとても楽しそうでした。

『今日はいつもより楽しそうだね』と言うと、妻は『初めて徒競走でビリじゃない姿が見られるかもしれない』という返事。

どういうことなのかと尋ねたところ、次のような話しでした。

同級生の女の子が、運動会の一週間前に捻挫をして、包帯ぐるぐる巻いている状態だったそうです。誰もが徒競走に出ないだろうと思っていたところ、『どうしても走りたい』と言い、

困った先生は、最終組で長女と走らせることに。

健常児六人+捻挫した子と長女の合計八人で走ることになりました。

捻挫して、包帯を巻いている子と走ることになり、『長女が生まれて初めてビリではない

姿を見られるかもしれない』と言い、ニコニコ笑いながら朝、二人で手をつないで出かけて行きました。

夕方、ニコニコして帰ってきたので、『どうだった?』と尋ねると、満面の笑みで、

『それがまたビリだったのよね』という答え。

すいぶん楽しそうな顔だったので、経緯を教えてもらいました。

健常児六人が五十メートルくらいのところを走っているとき、長女は十五メートルくらいの場所を走っていた。捻挫をした子は十メートルくらいの地点を走っていたそうです。

長女は、後ろを振り返り、気にしながら前を走っていたところ、捻挫をした子が『キャッ』と言って転んでしまいました。

それを見た長女は『大丈夫?』と言って逆走し、その子を助け上げ、肩を支えながら、

一緒にトコトコと走ります。

ゴールする、前に捻挫をした子の肩をポンと押し、その子が先にゴールしたと、妻は言いました。九十メートルくらいのところで、係のお子さんがゴールテープを取り直して張ったそうです。

父兄が二千五百人くらい来ていたそうですが、みんな立ち上がり、九十メートルあたりからは拍手をして応援してくて、感動的な光景だったと。

長女は捻挫した子を助けながら走ったにもかかわらず最後のところで、自分は先に行かず、

彼女を先にゴールさせたということです。

妻が『それでまたビリだったのよねぇ。そういう子どもだもんねぇ』と笑顔で言うのを、

私は苦笑いして聴いていました。しかし、その苦笑いしていた顔が、だんだん真顔に。

私は、父親から『努力しないやつはバカだ、クズだ』と何十万回と言われ続けて育ちました。

『どうもそうじゃないみたいだ』と思いながら生きてきたものの、長女の生き方が父親から教わったこととはまったく違い、衝撃を受けました。

私にとって人生観を根底から覆すような出来事だった。そのため、一週間考えました。

一週間考えて出た結論は『長女の生き方が正しい』というものでした。

ただ、私の魂がどちらの生き方を喜んでいるかと考えたときに、長女の生き方が本質だと思い、喜んでいる自分がいることに気がつきました。

私たちは、小・中・高・大学・大学院、会社、社会、家庭というすべてのところで、

・努力しないやつはバカだ、クズだ

・競いあい、比べあい、人より抜きん出ることが立派な人間である

・負けてはいけない

・成功しなければならない

と教えこまれてきました。

しかし、『人間の価値は、それらとは違うところにある』この新しい価値観を長女が教えてくれたのです。長女は、いつもニコニコしていて、私が家に帰ると、眠い目をこすりながら

『お帰り』と言って玄関先で迎えてくれます。

いつもニコニコしていて、楽しそうに、幸せそいうに暮らしています。

『努力しないやつはバカだ、クズだ』という価値観とはまったく違い、

ただそこにいるだけで、まわりの人に幸せを感じさせてくれる存在です。

この子が笑顔でニコニコしているだけで、まわりをとても温かくし、和やかな空気にします。

小学校を卒業するとき、 校長先生が次のようなコメントを書いてくれました。

『慶子さんの、笑顔とありがとうという言葉は、学校の中で最高のものでした。

これほど笑顔とありがとうの言葉が似合う子どもはいなかった』と。

私は父親から

・がんばらないヤツはバカだ、クズだ

と何十万回と言われて育ってきました。

長女が生まれてこなければ、ずっとその価値観で過ごしていたでしょう。

しかし、わが家に知的障害児の子どもが生まれてくれたおかげで、人間の価値は、努力すること、がんばることではないと教えられました。長女は、ニッコリ笑っていてくれているだけで、まわりをとても温かくし、光を発しています。

ここに人間の価値があると教えに来てくれたのです。

<引用終了>

2つの道のお話でした。どちらが、

・良い悪い、

・正しい、間違い

と言うことは無いと思うのです。

人それぞれの人生ですから、ある方は、必死に努力し勝ち抜いて、人より地位や名誉、

お金を得る道が好きかもしれません。

ですが、いつも心が追い詰められ、

・もっともっと努力しなければ

・努力をやめたらおしまいだ

・一回失敗したら「負け犬だ」

などと思ってしまったら、きっと神さまから頂いた純粋な魂が濁ってしまいますね。

人と競わずとも、いつも精神的に追い詰められて「もっと上へ」と馬車馬のごとく精神的にゆとりのない生き方でなくとも、神さまは私たち全ての人に生きる道を用意してくださっています。

それは私たちが生まれる前に、神さまと一緒に決めてきた道です。

私たちは小鳥たちのように、運命の流れに身を任せ、全てに「ありがとう」と感謝して生きていれば、上手に生きられるようになっています。

・お金持ちだから、

・地位や名誉があるから、

・大きな外車に乗っているから、

・広い家に住んでいるから、

・偏差値の高い学校を出たから・・

幸せなのではないと思うのです。

私たちの本当の幸せは、ブッダが説いた般若心経の教えのように全ての自分に起こってくるコト。良いことも悪いことも、肯定して受け入れそして感謝することで、得られるのかもしれませんね。

自分に起こってくる全てのコトは、私たちが生まれる前に神さまと一緒に、私たちの魂の成長のために、一番、必要なものとして、人生の必要な時期に起こるように。人生に組み込んで、この地球に生まれてきたのですから。

それでは最後に良寛さんの「起き上がり小法師(こぼし)」と題する短い漢詩をご紹介します。これは玩具のダルマのことです。

人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす

さらに一物の心地に当たる無し

語を寄す、人生もし君に似たらば

よく世間に遊ぶに何事か有らん

現代語に訳すと・・・

玩具のダルマは人に投げられても投げられたまんま、

笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。

もし我々人間も君のような生き方ができるならば、

人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。

名僧と言われながら、自らのことを「大愚良寛」と称した良寛さん。

人生を安楽に暮らす極意を、このように教えてくださっています。

何物にも捕らわれない広い心。慶子ちゃんと同じ心です。