「東京遷都の日」 奥の院通信から R3 11/26

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今から153年前の今日11月26日(但し、その時は旧暦を使用していたのでこの日は10月13日)、明治天皇が京都から江戸(東京)にお移りになり、江戸城に入られた。江戸も東京と名称を改め、江戸城は皇居と言うことになった。日本の首都が東京に移った。

 また、80年前の今日11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官は日本政府にハル・ノートを突きつけてきた。アメリカはこの中で、日本は支那大陸から軍と警察を引かせ、治安は一切支那国民党の蒋介石に任せよと言って来た。

 当時の支那大陸には、汪兆銘率いる中華民国が存在した。昭和15年(1940年)3月30日建国され、凄まじい勢いで経済発展を遂げ、極めて平和な国を作り上げていた。重慶に逃げ込んでいた蒋介石率いる国民党は風前の灯火だったが、アメリカの援助を受け、テロ活動を続けていた。

 ところが、この日に発せられたハル・ノートでは日本に対して、「重慶に存在する今にも消えゆかんとする蒋介石の重慶政府のみを正統政府と認めよ、それ以外の政権は認めるな」と言ってきたのである。この年4月から延々と続けてきた日米交渉の中で、こんなことは一度も話題に上ったことはなかった。にもかかわらず、このハル・ノートで、いきなり汪兆銘政権と断交して、日本と敵対している蒋介石政権を正統政府と認めよと言うのである。

 つまり、この日アメリカは日本に対して、呑めない条件をいきなり突きつけてきたのであった。日本はアメリカと戦うか、アメリカと戦わずして滅ぶかを選ぶ選択を迫られたのであった。
 ここで御前会議がもたれ、長野修身軍令部総長は「戦っても滅亡、戦わずとも滅亡と言うことであれば、戦わずして滅亡するよりは、戦って滅亡する方が良い」と言った。彼は、可能性は低いかも知れないが、戦って勝利し生存を図ろうと言ったのである。

 結局、日本はアメリカとの開戦を決意することになったが、一方のアメリカも、国民の間には日本との戦争をするという雰囲気はなかった。何故かというと、それまでの日米交渉はアメリカ国内では一切報じられず、ハル・ノートに至っては誰も知らされていなかった。のちにこのハル・ノートを知った国民の中には、これでは日本の真珠湾攻撃も分かると言った者もいたほどである。

 要するに、先の大戦はアメリカが起こしたものではなく、奥の院・ディープステートがアメリカ合衆国をして日本潰しをさせたのである。当時のアメリカの大統領ルーズベルトは、第一次世界大戦で「もう戦争はこりごり」というアメリカの世論を受け、「2度とアメリカの若者を戦場に送るようなことはしない」との公約を掲げて選挙を戦い、勝利し4選を果たしたのであった。

 奥の院・ディープステートはここでも巧妙であった。「2度とアメリカの若者を戦場に送るようなことはしない」との公約に、こっそり「このアメリカが攻撃を受けない限り」との一文を入れておいた。従って、彼らは日本の最初の一撃がどうしても必要であった。そこに日本は嵌まってしまった。彼らの望む通りの、最初の一劇をしてしまったのである。

 日本の連合艦隊がハワイに近づきつつあることを、彼らは暗号解読により正確に掴んでおり、ハワイ奇襲の報を受けて、大統領執務室に待機していたルーズベルトとチャーチルは飛び上がって喜んだ。これで第二次世界大戦を起こし、東ではドイツを、西では日本を潰すことが出来ると喜んだのであった。彼らにとっては待ちに待った戦争であった。

 この2人が喜んだと言うことは、あくまでも奥の院・ディープステートが喜んだのである。これで彼らの世界支配は完成すると踏んだのであった。最期に残った邪魔者を潰すことができるからである。戦後は、日本のアジアにおける影響力を完全に排除し、この地域を彼らの支配下に置いた。

 そして、彼らは日本が2度と彼らに逆らうことのないよう、日本を軍事占領下に置き、厳しく監視する態勢を整えて現在に至っている。日本に「どんなことがあっても、戦争はしません」と誓わせ、憲法にもそう書かせた。それでも彼らは不安なのか、占領軍は駐留軍と名前を変えて軍事占領を続けている。そして、彼らの費用も日本に出させている。日本は自分で自分に手錠を掛け、自由を放棄している。金を寄越せと言われればいくらでも「ハイ」と言って差し出している。そして