まるえいさんから宮山を眺望する
9月2日に 山善ビル2階にて開催されました。
二階では今回小松菜の水耕栽培が葉も隆盛を見せていました。そしてテネモス機器も並べてあって、みなさんにご覧いただきました。今回はボリビアから一時帰国中の知花先生の弟さんも参加されて最初にお話いただきました。
知花さん :
昭和35年ボリビアに移住。出稼ぎブーム日本は最盛期。人材派遣業をブラジルで弟さんが営んでみえて日本にも支店をということで横浜鶴見区で会社を始めました。お兄さんの敏彦さんが長野県の清里の「やすらぎの里」で説法をしてみえ、その時に何度か通いました。飯島さんも同じ時期にきてみえて、南米での無農薬農業を依頼しました。500ヘクタールという広大な土地です。
ブラジル航空で南米へお客様をコンダクトしました。その後日本の状況が厳しくなって、ブラジル航空もなくなったので旅行者をやめました。(アンデスインターナショアンルという旅行社経営)
その後横浜でいとこの人と一緒に電気工事会社を経営しました。人材は南米から投入しました。窓口として経営に参画、その後電気工事がわかる人に社長をということでいとこの人に社長を譲って南米に行くことにしました。本日も参加のGさんをボリビアで案内させていただいて繋がりました。二年半ぶりに日本へ戻ってまいりました。
Y:知花さんのお兄さんにゆかりの深いSさんいかがですか。(お話を要請)
S:平成元年知花先生の最初から関わりがありました。朝昼晩と三度お話を伺い、飯田から二時間の道のりを月に4~5回通いました。知花先生の話は簡単なようで難しくよく理解できなかったのですが、飯島さんにであってからの体験から、知花先生のことがわかってきました。戦後72年ですがすべて有限の世界、どうしたらよいのか、どう考えたらよいのかがない。どんな論議も先が見えていない。ここに集う人は少しわかっているが、一般の人はわからない。単純なことがわからない。
四六時中本質を見る、生命は一つ、自然は自然に収まっている。親類に人に言われぬような大変なことがあったのだが、知花先生に会ってなんとか乗り越えることができた。
知花さん:
ボリビアに16歳に移住。日本にも住んだがやはりボリビアに住む。気候が住みやすい。 人間が素朴ですみやすいです。沖縄については時代がそうしてきた。沖縄の人たちは苦しかった。時代を乗り越えてきた。予算をもらって発展してきた。基地の国有化には不安がつきまとっている。ボリビアではまずしいから与える意識が強い。日本は物に溢れて心が狭くなっている。
次にテネモスの釘本さんにお話をいただきました。
沖縄に移住して一年になりました。自然を感じる生活。犬 毎日散歩。海岸 はだし。凄く充実した生活です。犬をブラッシングして、毛の抜け具合で季節を知ります。海の朝凪、夕凪で風の向きが変わる。その変わり目に0の時間があります。ニュートラル、それを感じることができるのが嬉しい。それを感じることができたのは飯島さんのおかげです。海老蔵さんは真央さんは自分を変えてくれた人といいました。
飯島さんと5年半共にいさせていただいて、原点(意識)が大切とわかりました。
戦争の回避:
自我での話し合いでは解決できず。自らの心を平和的にすること。この世界は一人ひとりの心の積み重ね当たり前の生活(平和、自然)は次の三つの方法の中にヒントがあります。
今日名古屋の方たちと何をしようとおもいましたが、飯島さんと一年間朝ごはんを食べた人であるNさんからお聞きしたバラマハンサヨガナンダの「人間の永遠の探求」からの抜粋を皆さんと共に読みたいと思います。
以後一項目ずつ輪読し、後に解説となりました。