ぜんぶ実験で確かめた宇宙にたった1つの神様の仕組み
(飯島秀行著 ヒカルランド)より抜粋
花咲かじいさん
花咲かじいさんは、昔話の中でも、代表的な物語だと思います。おじいさんおばあさんが登場するわけですが、ここで登場する、おじいさん、おばあさんは形を持った人間としての結果ではなく、意識の世界の、おじいさん、おばあさん、なのです。すべて、この物語は、内面的な世界ですから、結果である外面の世界ではなく、原因である内面の世界を捉えて表現しています。
白い犬がおじいさん、おばあさん、のところに迷い込んできます。当然この犬も、犬という物質を見るのではなく、白いもの、として見るのです。
白とは何か、全我である心を白色にたとえたのです。おじいさん、おばあさんは、白い犬をかわいがる、と書いてありますが、かわいがるとは、おじいさん、おばあさんは、全我と同調していた、ということです。
全我と同調していた心は、何を生んだのでしょう。ここ掘れワンワンと、金や銀の宝物を掘り出したもです。分離感のない心は、その宝でさえ、多くの人に分け与え、平等の心を持っています。逆に言えば、平等の心、分離感のない心、そのものが、宝を生み出した、と言えます。
それを見ていた個人我は、その白い犬を貸してくれ、と言ったと書いてあります。全我の心は疑いもせず、犬を悪いじいさんに貸します。当然この悪いじいさんは、宝を掘り出したら、すべて自分のものにしようとする心は、見え見えです。このような心は、宝を生
んだのでしょうか。
同じ犬を使っても宝どころか、ガラクタしか出てきません。明らかに心の遣い方で、物質も全く違うものが生まれる、と解釈できます。
宝を手にできなかった悪いじいさんは、自分の心を反省しないで、犬に八つ当たりして、殺してしまいます。ここでは、犬を殺した、というより、全我に目覚めない、と解釈したほうが後々のストーリーに、繋がりやすいです。
大事な犬を殺されても、おじいさん、おばあさんは、悪いじいさんの悪口一つ言いません。本来、白という生命は死ぬことはありません。死とは、犬という形が、崩壊しただけです。この物語では、常に白という犬、つまり、白という名の生命をおじいさん、おばあさんが意識している、ということです。
何と酷い(むごい)ことをする、と言って死んだ犬を引き取ります。そして、穴を掘り、死んだ犬を埋めて、小さな苗木を植えた、と書いてあります。その苗木に毎日水をやる、つまり毎日生命を意識している、ということです。やがて、苗木は成長して大木になります。その大木に雷が落ちて、木が割れて倒れた、と書いてあります。その木で「臼(うす)」
を作ったと書いてあります。
イオンを持った木に、雷のような強い電圧をかけると、非イオン系に変化します。中性です。その「臼」を突くと、宝が湧き出た、と書いてあります。全我で生命を常に意識している心は宝を生む、というたとえです。中性は空と融合します。それそのものを宝とたとえたのです。
その宝もおじいさんは、皆に分け与え、自分だけのものにはしません。宝が出てくることを知った、悪いおじいさんは、その臼をおじいさんから借りてきて、同じく突きました。そこから何が出たのでしょうか。
おじいさんのような宝は生みません。出てきたのは、またしても、ガラクタだけです。同じものを使っても、宝とガラクタに分かれる。明らかに心の表れを表現しています。悪いじいさんは、また物質に八つ当たりして、その臼を燃してしまいました。
臼を燃やしたということは、真我に目覚めない、自我の心という意味です。常に白という犬、つまり常に生命を意識しているおじいさん(生命体)は、灰になった臼を持ち帰ります。そのとき風が吹いてきて、その灰が桜の木にかかり、桜の木に、花が満開になった、と書いてあります。
灰はものを再生する力を持っています。植物の癌と言われる「バイラス」でさえ、90%以上の確立で再生します。なぜなら、アルカリは必ず、空(くう)という酸を呼び込みます。生命を呼び込むということです。
おじいさんは、お殿様がその道を通るとき、桜の木に登って、その灰を蒔いて、見事な花を咲かせ、お殿様から、たくさんのご褒美をいただいた、と書いてあります。先ほども言いましたが、花が咲くとは、再生です。アルカリは、必ず空という酸を呼び込む、宇宙の中性力が働いているのです。
それを見ていた悪いじいさんも、お殿様から褒美を貰おうと、桜の木に登って同じ灰を蒔くのですが、花は咲きません。灰はお殿様の目に入って、お殿様からお仕置きを受けた、と書いてあります。
同じ物質を使っても、同じ結果は出ない、使う人の意識(心)の状態で大きく変化するのです。結果である物質の遣い方の「マネ」をするのではなく、原因である、動機の心を「まね」なくてはなりません。
「花咲かじいさん」は心の表れを表現している教えです。
(抜粋終わり)
飯島さんは、「たとえば、たとえるしかないんだけど・・。」と言って話をはじめることがありました。
日本昔話は、日本語で書かれた聖書。すべて内面的なことが書かれているけど、ほとんどの人は、外面的にとらえて解釈している・・そう言っていました。
よく、「欲望を捨てろ。」と言われました。
欲望は、中性の意識に対するギャップの意識です。宇宙の法則は、欲望を出すと、そのギャップをゼロ(中性)に戻そうとする働きが働きます。そのゼロに戻すはたらきの結果が、病気であったり事故であったりするのだと思います。
保険をかけたり、法律を作ったり、武器を持ったり・・人は結果に対処することばかりやっています。結果対処には、お金がかかります。内面の原因の世界から対処が必要です。結果で結果を変えることはできません。問題解決どころか、問題が大きくなるばかりです。
みんなが、花咲かじいさんのような中性の心(意識)を持つことが、問題解決の第一歩なのではないでしょうか。人の意識を変えることはできません。自分が心がけるしかありません。