「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数」
藤原正彦 数学者
まずは母国語である国語を、強制的でも
画一的でもしっかりと叩き込むこと。
漢字を覚えさせることです。
小学校の英語、パソコン教育は直ちにやめないと
いけませんね。小学校から英語なんてやっていたら、
日本から真の国際人がいなくなります。
国家的損失です。
私が数年の海外生活を通して痛感したのは、
東西の名作名著や日本の文化や伝統に精通している
ことが、流ちょうな英語を話すこととは比べ物に
ならないほど重要ということでした。このことに
何十年も気づかなかったので、いまとなっては
呆然としているわけです。
アメリカの小中学生二万校で株式投資を
教えているといわれています。アメリカの教育学者は
「そのおかげで子供たちが新聞の株式欄に目を通すように
なった」とか「社会に目が開かれるようになった」とか
自画自賛しているのですが、私はこういう人間に
つける薬はないと言いたいですね。
子どもたちが新聞の経済欄、株価欄に目を通す
必要は全くないんです。本音を言うと社会に目を
開く必要すらないと私は思っています。
そういうことよりも、とにかく日本人の魂の
中心である国語を身につけさせること、
読書を好きにさせること。その次には算数の
九九をきちんと覚えさせること。それを抜きにして、
創造性だ、独創性だ、自ら考える力だといくら
叫んだところで、そんなものは生まれるはずがない。
いまは子供たちの自主性を重んじるというので、
とにかく押しつけなくなりました。
戦前、非論理的なことを押しつけすぎた反動で、
戦後は非論理的なことはやめましょうと論理的に
説明できることだけを教えるようになったんです。
しかし、世の中で最も重要なことには論理的
に説明できないことが多い。例えばなぜ人を
殺してはいけないか。私なんか、人を殺してよい
論理は一時間もあれば百くらい考えつきます。
しかし、人を殺すのは駄目だから駄目なんですね。
論理的な理由はない。同様に卑怯はいけない。男が
女をぶん殴ってはいけないという論理的な理由は
何もない。卑怯というだけです。そういう価値観を親が
自信を持って問答無用で押しつけることが重要だと
思います。
私はいつも一に国語、二に国語、三、四がなくて
五に算数。あとは十以下と言っています。
初等教育における国語の占める割合はそれくらい
圧倒的なんですね。
江戸時代の初等教育は寺子屋で行われていました。
しかも江戸には千数百か所、県単位で見ても
三百、四百とあるんですね。
全国津々浦々にあって町民から農民までが
ここで学んでいた。
寺子屋の先生たちの偉さは、教育にとって
最も大事な読み、書き、算盤(計算)と順序立てて
捉えていた点ですね。今の世界の教育学者たちが
見失っていたものを、寺子屋の先生たちは
見抜いていたわけです。