「竹のものがたり」 その11~ エピローグ

今回の「竹のものがたり」のきっかけは
平成4年から、すでに29年に及ぶ
お付き合いをいただいています、東京の
野口様ご夫妻に書いていただいた個人の御天画から
始まりました。

野口様はいわゆる心霊的な能力をお持ちの方です。
ですから人間としてなんらかの壁を外されていると
感じます。

主にはこの国や世界の在り方や、人間としての
在り方を「御天画」として、毎年お盆の月を除いて、
11回ですから、今までに300枚を超える絵が
降ろされています。

その絵は「冠之会」という集いにて、年11回、ご縁の皆様とともに
絵の意味するところをお勉強させていただいています。
この絵には、野口様には郵送料のみのお支払いをさせて
いただいています。

EPSON MFP image

全体の「御天画」には金銭的な負担はありません。
そして集いには野口様は参加されず、参加者の
自由な解釈を互いに受け入れて、学びを続けています。

その会が30年以上続いているのです。
ですから一般的には「怪しい集い」にみえるかもしれませんが、
ほんとに、そうかもしれません。(笑)

野口様が参加されるとどうしても教祖のように、
なってしまい、参加の方々の自由な意識が
妨げられることになり、また野口様がおっしゃることに
依存しがちとなります。
野口様もお一人の人間としての立場を
守って見えるようです。

巨額の売り上げを上げる貿易商であった
ご主人は一晩にしてすべてのトレードを
キャンセルされ、この御天画を降ろすことを
生業としながら、現代の「日月神事」とも
感じられる「御天画」を世に問うことを
まるで天に強制されたかのようでした。

それで、もちろん望まれる方には、個人の
御天画を降ろされますが、生活はずっと質素にして、
余裕の財については、日本や台湾での「祈り」の
旅についての費用にあててみえるのです。

長崎のあんでるせんの久村さんのように、
マジックショーの費用は、食事代金である
850円以上の食事代のみであることと
よく似ています。

心霊的な能力を自分の生活の豪華さにあてがったりはせず、
また決して、ご相談者の方に恐怖感を与えて、
依存に導くようなことはなさいません。

おそらくご相談者の内側に眠る振動から、感じる取るままに
「御天画」に記されるのでしょう。

「空間とは何か」

まずあんでるせんでの物体のテレポーテーションですが、
長崎で手元から離れて消えた時計が、その時計と
持ち主しか知らない、自宅のいつもの置き場所に翌日
名古屋にもどったら置いてあったことがあります。

そのほかに、もう今ではしていませんが、送り先不明の
指輪とかが、あんでるせんさんにいくつも届いて
それを次々に不明の送り先に空間から物体を
消して送ったことも確認されています。

そのことから、私たちの目にするこの世界の実体とは
何かを考えさせます。
空間と物質の不思議です。
もしくは空間と物質の真の意味ですね。

さてそのようなことから順を追って今回の「竹のものがたり」の
変遷を少し考えてみました。

「時間とは何か」

さて個人の御天画を降ろしていただいたのが、
令和2年12月13日です。
昨年の暮れです、
いつもほぼ暮れにお願いするのです。

それが、この絵です。
「竹のものがたり」の始まりの絵となりました。

こちらを正面に位置しながら、野口様は絵と
文字を降ろされます。絵も文字も画像のように
浮かぶようです。
ですから変な話、文字を上下逆からでも書けます。
文字も「絵」なのですから。

この12月13日の時点で、

1.左の契約のような判子と印台。

2.竹を担いでいる人物。

3.笹の葉の「和」と赤と黒の三枚の短冊。

4.右側の円にある、二つ巴の「矼」の文字。
 「悦」は喜びですから、喜ぶこととの認識は
 あり、嬉しいことの予測ができます。

以上の四つのことに、個人として何のことか
まったくわからない状況でした。
心当たりがないのです。

もしこのことが未来と呼ばれるときに、
現実に起きてきましたら、考えられることは、
過去と言うときに、すでに未来はあったということになります。

そのことが徐々に現実に起きてまいります。

そして翌年の2月、娘の真由美が竹のことで、騒いでおり、
竹を持参したのは娘だとはっきりします。
娘は竹の御天画を見てはいませんでした。

3月には、竹の葉や竹本体の炭に関わる商材のことで、
社長の息子がその生産者と黙って契約を済まします。

この時点で1.の判子と印台の意味、
そして2.の竹を持参する人物が判明しました。

全く予想だにしていない出来事でした。

さらに竹炭、笹の葉の炭の生産者である
岩熊裕明さんが会社にみえたのが3月の27日と
なりました。

そこで岩熊さんのお話をうかがったことで、
3.の意味と、4の「矼」(コウ)の意味が理解できます。

矼(こう)とは、塩を竹筒に詰めて炭化装置で
炭化した後の塩の状態が、石のように固く、大根おろし金で
擦らなくてはならないほどのものと知ります。
そのようにして「石」の「加工」を悟るのです。

いずれにしてもそれはとても喜ばしいこと。
竹炭と笹の葉の炭(単体ケイ素が50%混入している)
が対外環境と人の体内環境を改善する有効であるものとの
認識が深まりました。

ここにいたって過去の12月13日のすべての謎が未来の
3月27日という日に解けたのです。

今ここで申し上げたいことは、
過去すでに未来があったという一点です。

過去、現在、未来と言う時間の流れが実は
もしかしたら、「今」というときしかないのではないか。
そしてあんでるせんで起きたように、空間とか物質もまた
幻想のようなもので、やはり「今」の一点にあって、
それは実は幻のようなものにすぎないのではないかと
強い確信をもって思わせるできごとだったのです。

もしそうだとしたら、予想もしない出来事は世の人の
常に変化してやまないこの現実という世界の中で、
全ての人々に、全時間、全空間から与えられたり、
もしくは自分という全体が引き寄せたものだと考えることが
できます。

だからこそ、自分の前の出来事はそれを受け取る側の
いわば「担当」であるとも言えます。

そうであるならば、その「担当者」としての自分は
それから逃げるのではなく、それの全てを「受容」することが
生まれさせていただいた最大の責務と言えるのではないか。

そしてそれが激しく、大きく、つらく、悲しいものであれば
あるほど、その方の責務の重さを感じさせるのです。

わたしたちは何故人間としてこの世に生まれたのか、
何をするために生まれて来たのか、を問うとしたら、
それは自分にあたえられた現象をすべて「受容」し
相手とともに「赦し」を継続することではないのでしょうか。

そして「担当者」としての自分を認め、愛し、
抱きしめながら、積極的に「0」に向かって
何も瞬間瞬間に残すことなく歩み続けることで、
「よい一生だった」と思えるような気がいたします。

さらには肉体という、幻想を離すのみですね。

時間なく空間なく「今」を積極的にすべてのすべてを「受容」して生きる。

きっとそれがあなたに与えられたミッションですね。

人生は素晴らしいものですね。