「竹のものがたり」 その10~連載を終えて

「竹のものがたり」はふとしたことのきっかけから
始まりました。

それは、尊敬する方のお話の間違いでした。
それも人物の勘違いを、2度同じ間違いです。

しかしその勘違いのおかげ様で、たくさんの学びが
ありました。
ですから間違いのお話の主は、むしろ恩人といっていいです。

中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行。

関ケ原の戦いから始まった、徳川260年間の
ほぼ戦いのない時代の、精神を支えたこの国の
偉人たちです。

それぞれの持論を展開し、多くの人々に目覚めを
もたらしたお三方のうちでも、ひときわ大きな人物が
「近江聖人」である中江藤樹でしょうか。

そのさまざまな逸話から感じることは大きいです。

「厩の火事」「鯉と盆栽」「馬方又兵衛の行為」
そして何人も持って生まれた「明徳」を、明らかにするのが
人の人たる道と、喝破した藤樹先生は、どんな人も
公平に見、どんな人もまた「聖人」になることが
できるのだと、強い確信を持っていました。

そのためには心の鏡を常に磨き続けること、
「心をきれいにすること」と説きました。

そして朝早くからの掃き掃除、さらに若き後妻の為に
「まだ19歳と若いのだから」自分が死んだら、
国元に帰らせて、次の人生を選べるようにとの
遺言をするような、やさしい配慮もありました。

「藤樹書院」のあった旧小川村に、運転する車が差し掛かるころ、
その村の誠実な心が、精神が村の空気に満ちているかのような
清浄感を感じさせます。

藤樹は「処士」への道を歩むために、愛媛県大洲加藤藩での
安定した生活を振り返りもせず、自分の父が目指した
道を迷うことなく目指し、脱藩します。

生命をかけての勇気ある決断に、心が躍ります。

その後のさまざまな出来事が、村民や、加藤藩からの
参勤交代による立ち寄り武士たちや、陽明学の
次の時代を気づく熊沢蕃山の心を打ち、大袈裟ですが
現在までその精神は多くの誰かに受け継がれているものと
感じます。

「聖人」の称号はこの国の他のどなたかには
つけられているのでしょうか。?

「竹と中江藤樹」の結びつきはちょっと無理がありそうですが、
なんとも不思議なご縁を感じざるをえません。

平成4年からですから、29年間にわたって「天からの絵」を
降ろされる東京のNさんの絵がその導きともなっています。
世界の絵と個人の絵もですが。

令和2年ですから、昨年の12月13日に描いていただいた
個人的な天画の中に現れた、竹をかつぐ人物と、不思議な絵や
文字がすべて理解できたのが、未来と言われる3月の末でした。

藤樹が9歳から27歳まで過ごした、愛媛県大洲市の肱川(ひじかわ)町。

その肱川町に、これまた不思議なご縁で、九州の大牟田市から
移住した「岩熊裕明」さん。

その熊ちゃんが30万年前の世界一古い木炭の発見地から
「竹炭」をもたらし、この国へとひろがりを見せていくことが
目に見える様です。

未来とは何か、過去とは何か、今まで保ち続けてきた
「確信」がなお強くなりました。
また今生でのどんなお出会いもすべて、自らの意識が創り出した
「映像」であることの確信です。

だからこそすべて「受け入れて」いつもいつも、どんなときも
「命耀いて」生かされたいものと念願しながら、
そして「実践しながら」歩いて行こうとの決意が再び
強くなっています。

ここまで「竹のものがたり」を根気よくお読みいただいた
すべての皆様に、そしておつきあいに、深甚なる敬意を表します。

ありがとうございました。