Yさんとのお別れは18歳の時でした。
助けていただいたYさんのおかげもあって、
無事に高校に通うことができました。
今度は大学入試です。
時代は昭和35年の「もはや戦後ではない」から
始まり、池田内閣の所得倍増計画の影響か
景気がよく、各個人の収入は飛躍的に増えていました。
「名大に入りたい。」は遠い願望です。
高校3年間を無事に過ごし、あとは大学受験のみ。
変人かも知れませんが、卓球部を3年の最後の試合まで
続けたのです。
たいていは二年生まででクラブ活動をやめる人が
ほとんど。
先生のM先生と顔があうと、
「おい、クラブなんかやってていいのか、?
勉強しろよ。」といつも言われていました。
途中でやめるのが嫌な性格は今もって変わらない。
本当は別の理由もあったんですが。
そんなわけで、勉強は進まず結局必須科目の「化学」は投げた状態でした。
志望は第一希望が建築、第二希望が土木、第三希望が農学部。
第三まで書いても結局はだめだろうと思いました。
入学試験の当日、思ってもみないことが起きます。
教室の中の25人のうち一人しか受からない。
ものすごいプレッシャーの中で、おまけに化学を捨てた。
ほぼ化学の試験は諦め。
試験時刻のわずかの時間でも多くの学生は、秒を惜しんで
参考書をじっと見ています。
こちらはそんなかっこ悪いことするもんかいと、ほとんどの
試験科目では見ないのですが、化学のときだけは別。
不安がかっこ悪いことをさせました。
化学の問題が配られて、問題を見ました。
頭がおかしいのかと思うほどの奇跡が。
少し前に見ていた問題がそのまま出ていたのです・・・。
合格発表の日が来ました。
高校のときのような感激はないけれど、そして
自信はないけれど行きました。
発表の掲示板、建築には何度見てもありません。
「ああやっぱりだめか。」と思いました。
がっくりしながら、だめだろうけれど一応土木もと
土木発表に移動しました。
あったのです。
ほんとうに第二志望ってあるんだ、とビックリすると同時に、
ものすごく喜びがこみ上げてきました。
雲に乗っているかのようでした。
完全にフロックですが。
そしてその後建築の人たちを見ると、
結局全員が記憶力と点数が自分を越えているんだと
複雑でした。
合格発表の報告にM先生のところに出向きました。
大親友で同じように、でも第一志望で土木に入った同じクラスの
S君と共に。
M先生は言いました。
「お前達二人はフロックだな。
まず無理と思っとった。」
なんて失礼なとも思いながら、皮肉屋先生の
ジョークを共に喜びました。
Yさんとのお別れは町内の「ワンエイト」という喫茶店です。
「まあちゃんよくやったなあ。よかったなあ。」と
父親のように喜んでもらいました。
そして家族は豊山村に越していきました。
それから12年後の30歳のとき、新しく興した会社に
Yさんから電話が。
「まあちゃん、わかるかYだよ。会社始めたんだな。
凄いね、まあちゃんは。・・・・」
成功を喜んでいただきながら、自分がその後岐阜の家に
戻ったこと、家族と一緒に暮らしていること。
そして自分で印刷屋さんを始めていることなどいっぱい
お話されました。12年の空白を声が埋めていました。
「明日名古屋へ行くから、一度会おうよ。」
約束して電話は切れました。
出会いの約束の翌日電話がありました。
「まあちゃん、やっぱり会うのよそう。
僕の若いときのままで覚えておいて。
それでいいから。またね。・・・・・」
その電話から、もう再びYさんからの連絡は
ありません。どこにみえるのかもに調べずにいます。
あえて思い出として二人の胸の中に残そうと感じました。
二人の父親代わりのお一人のYさんの思い出です。