ある道のり~いのちの実相 1 長女のこと~

昨年の2019年はたくさんの縁戚とのお別れがありました。
一月に実兄、5月に実姉、そして11月に養子としての山田家の母。

2011年に山田家の父、そして2013年6月18日には長女Sとの
お別れがありました。

この6月18日は実の父の命日でもあり、人の生の
不思議を感じさせます。

肉親のそして養子家の祖先となった全員を
見送りながら、縁の深い人生の先輩たちに深い思いを
寄せています。

長い期間にわたって人生にもっとも大きな
影響を与えたのは、実は長女でした。
あとの子供たち三名は自分たちの人生を、自分たちの生きたいように
しながら、さまざまな体験をしたようですが、らしさあふれる子供たちです。

長女には人生の宝、忍耐と受容そして積極を教わりました。
一番近くで、長い間です。

40歳足らずの短い今生でした。

人ならば、誰でもその人しか体験できない、たった一つの人生を
送ることになります。あたりまえのことですが、 その人生の中でどうして自分だけ?と
思うようなことがらがどなたにでもあることでしょう。

娘は高校2年生の冬に精神が不調になりました。
わかったその日その時が、その後の人生の大きな転換点となりました。

それは久しぶりの私の実家の親戚との旅行中にわかりました。
愛知県三河蒲郡にある竹島をみんなで歩いて一周したあと、
浮かない表情の娘に大丈夫?と声をかけました。

「お父さん・・・私きのうもぜんぜん眠ってないし、3日間まったく
眠ってないの。景色がぜんぶ灰色に見えてちっともきれいじゃないの。」

と訴えてきました。
異常と直感しました。
そして長い長い幻の旅が始まりました。

娘が亡くなったことで、今の心に、長い間疑問であった「いのちの実相」に
ついての確信が生まれました。
その確信は娘がくれたプレゼントとなりました。

26歳のとき、養子として山田家に来ました。
4年間ほど勤めた建設会社を退職し名古屋に戻りました。
本家の森本家の母は大反対でした。

せっかく入った会社をやめて、名古屋で養子だなんて許すことが
できなかったのでしょう。

母には「大企業には代わりはいくらでもいるけれど
山田家には自分しかだめなんだから」と話しました。
長女長男が名古屋に戻った頃にはいました。
その後次女三女が出現しました。

やっとのことで入った高校で娘の母となる家内に会いました。
こちらが高校二年生、家内が一年生の春でした。
始めてあった日に、この人と一緒になると直感しました。

そしてその8年後結婚し、栃木県宇都宮市で娘は
生まれました。 
7ヶ月の早産でした。

1300Gと小さく、町の小さな産院ではケアできず、すぐに
宇都宮大学病院へ移送となりました。
車の後ろの席の箱に入った娘に始めてあいました。
真っ黒な目をして、こちらを見つめていました。
娘に最初に会った親は父親でした。

そして娘と母は一月間、離ればなれでした。
毎日毎日病院のガラスの向こうの娘に会いに行きました。
未熟児用のケアルームがそのガラスの向こうの部屋でした。
娘はいつも黒い目でこちらをじっと見つめるかのようでした。

一週間ほどたった日、先生から相談がありました。
「お子さんの酸素をこれからどうなさるか決めてください。
もし酸素をこのまま続けますと、目が見えなくなる可能性が
あります。酸素を今切れば失明のおそれはありませんが
生命にかかわることになるかもわかりませんが。」

この決断はむつかしいことでしたが、家内に相談することもせず
酸素を切ってくださるようにお願いしました。
目が見えたほうがと思いました。

一月の後、産後の家内は退院し、宇都宮大学にいた
娘も退院となりました。
家内は早産に至った原因を自分に課し、一生この子のために
何でもしよう、そしてできるだけのことをしようと決意したようでした。
平穏な時が流れ、家庭に幸せ感が溢れていました。
半年後、名古屋には家内と娘と、そして新しくおなかに宿った子とが
戻りました。 そしてその年の10月に会社を退職し、私も戻りました。

その後は仕事のことでたくさんのできことがありました。
また子供もあと二人授かりました。
お父さんは、精一杯働きました。

長女が幼稚園に入ったころ、ころんでも泣かないことに
気づきました。 そして幼稚園でも、一人で砂場で遊ぶような子でした。
小学校に通いだして幾度か、ランドセルの後ろや、Tシャツに
落書きがあるのを見ました。いじめられているなあと直感しました。

学校にはその頃ノータッチだったので家内が抗議したようでした。
中学校でも、ゆったりした性格と、人のうわさをしない
まっすぐで純真な性格から、やはり他人とはうまくいかないようでした。

それでも学業は良かったらしく、推薦で高校に入学し
最初のテストで一番になってしまったようでした。
それが彼女のプレッシャーになりました。
次第にどんどん成績が落ちていきましたが、先生からは
大きな期待を寄せられて、心が小さくなっていったようです。

そしてなんとか2年まで持ちこたえた後の正月に
直接娘が訴えたのでした。

大学病院の精神科での検診を受けることになったのは
その年の4月でした。