平成7年、横浜のアンデスインターナショナルという旅行社で始めて飯島さんにお会いしました。この旅行者は飯島さんとご縁の深い知花敏彦さんの弟さんの経営する会社でした。およそ20名の人たちでボリビアに研修旅行するための打ち合わせに、その頃ボリビアと日本を行ったり来たりしてみえた飯島さんに、ボリビアでのご案内をお願いするための初顔合わせに出向いたのでした。
事務所に音もなく入ってみえた飯島さんに、人としての気配が感じられずに、心なしか驚いている自分がいました。当然に飯島さんは30代、とてもお元気で、農業の実践研究者という感じがいたしました。人柄は透明感のある寡黙で素敵な人という印象を持ちました。
20名の旅行が何の目的で行われたのか。
それはその頃所属したある団体での卒業海外研修旅行でした。ある程度の量のカリキュラムを終えた人たちが自主的に自分達だけで行き先を決定します。そして相手の国の方たちや、相手の国で活躍する日本人の方たちと交流をし、将来共に心の繋がったネットワークを構築することが目的でした。
私達はイスラエルかボリビアのどちらかを参加者の中での投票によって決めました。ボリビアに決まりました。ボリビアといえば若い頃からボリビアとご縁の深い知花敏彦先生です。まず知花先生にボリビアとの関わりのご紹介を頼もうと、先生の住まいされる長野県の清里にうかがいました。
日本各地から卒業生が15名ほど集まりました。その清里で、知花先生は朝晩の二回、一時間の瞑想後一時間の講演を長い間継続されてみえました。何も精神的に気高くもない私達ですが、先生はボリビアとの橋渡しを快くお引き受けくださいました。
そして、かの横浜のアンデスインターナショナルをご紹介いただきました。そこで飯島さんとの初の出会いがあったのです。ボリビアでは飯島さんがその頃農業指導をされていたサンタクルスという都市や標高4000メートルの首都ラパスなどでの視察を行いました。
知花先生や弟さんそして飯島さんに大変にお世話になりました。農業では完全発酵堆肥作りの現場や、広大な農地や酪農地、日本人のシスターが運営する孤児院の訪問そして沖縄からの移住者の方々との懇親もありました。また知花先生や飯島さんの講演もいただきました。
飯島さんのお話は、面目ないことですがほとんど?でした。ボリビア在住の知花先生のご長男の新居やその頃開発中でもうすぐできると言われたマナウオーターの初期の水も体験できました。観光ももちろんありました。
そして今回のネットワーク構築のハイライトが、私達の団体が目指すネットワークコンピューターの目録を贈呈することでした。まだいまのようなインターネットがない時代のことです。知り合った人たちのご縁の心の繋がったネットワークの道具としてのネットワークコンピューターを開発し、完成した暁には、それを贈呈すると言う目録を飯島さんにお渡ししました。5年後までには完成すると言うふれこみでした。
ボリビアでのお別れの日、卒業生の一人が進呈した三年物のたまりの小瓶を、胸に抱え嬉しそうにたたずむ飯島さんのお姿が今も脳裏に浮かびます。そのボリビア旅行が無事に終了したあと、卒業生のお一人の女性が飯島さんを名古屋にお迎えし幾度かお話会を開催したようでした。
一度だけその集いに伺いました。そのときはまだ初心者の私達に、わかりやすく日本昔話を引き合いに、真理をそれとなくお話する飯島さんでした。それでも何をおっしゃりたいのかまるで理解不能のこちらの石頭でした。ただお話は大変に興味深く、いつも眠くなるのにまったく眠くなかったことを覚えています。
それから5年の月日が流れました。私達の団体は「心のネットワーク」からいつしか「お金のネットワーク」に変化してしまっていました。私はその団体をすでに離れていました。しかしあのボリビアでの約束は鮮明に覚えていて、約束を果たさなければと思いながら、ネットワークコンピューターが完成せずにいて、どうするか迷っていました。「お金をお渡しして必要なコンピューターを買っていただこう。」と思いました。
お電話を差し上げた住居の新井宿には飯島さんはみえず、ボリビア滞在中でした。奥様の、もうすぐ戻るので電話をさせますというお返事で、しばらくの日を待ちました。
その後幾日かたって、電話がありました。電話で約束を果たせないことをお詫びしました。そして申し訳ないですが、パソコンを購入してくださいとお願いし新井宿へ現金を持参しますとお伝えしました。飯島さんは「お金をいただくのに来ていただくのは、申し訳ないです。こちらから伺います。」と言われました。
わずかなパソコンのお金を贈らせていただくのに、埼玉から交通費をかけて来て頂くなんて、申し訳ないと感じました。そしてなんと積極的な方なんだろうとも感じさせていただきました。
5年ぶりに、呼びかけに応じて集まった人たちの前で質疑応答形式の講演がありました。やっぱりまだわかりませんでした。ただそのお人柄と、その積極性にまず心打たれました。5年を経て無事に贈呈式ができてほっとしていました。
その日から二日後、10台ほどのマナウオーターが送られてきました。贈呈した金額の何倍もの金額になるのでしょう。常識を超えた飯島さんの行動に、驚きと共に自分の小ささを知りました。いただいたマナウオーターは講演に来ていただいた参加者の方々に無償で提供させていただきました。それからは、空気活性機の周知やマナウオーターの拡散が喜びの仕事になっていきました。しかし飯島さんにとってその後長く深い活躍できない時間が流れました。
そして平成23年、日本を揺るがす大震災が起きました。震災の翌日すぐに電話がありました。「仙台の人っていたよね。連絡先教えてくれる。?」それで仙台の友人の連絡先を伝えました。それから何十台もの簡易空気活性機が東北方面に無償で送られたようです。
この震災から以後、飯島さんの真理伝達の速度は加速しました。そしてたくさんの品物や機器が開発されました。その物群はまるで時節を待っていたかのように現実に出てきました。言葉だけでなく、ものの現象でもって真理法則を理解できます。意識は最大の変化を生みますが、ものでも誰がやってもおどろくべき結果を生みます。飯島さんは新井宿の今の「テネモスランド」をずっと思い描いていました。そして「思ったとおりになる。」 法則を体現しました。
3月1日にテネモスさんからお電話をいただきました。
「飯島さんが今日の午後2時23分になくなりました。」
体から離れた運転者は今頃どのあたりでしょう。まだ遣り残したことがあったかもしれないけれど、あとは現実に今体を持っている人たちに託されたのでしょう。今思えば、その団体へ参加するきっかけとなった講演会があるという日まで、いままで経験したことがないようなワクワクした気持ちがずっと続いていました。その団体は霧散してしまいましたが、その団体のおかげでご縁ができた飯島さんとその後22年間もご縁をいただいて、こうして今もワクワクする気持ちで毎日が送れています。結局そのワクワク感のわけは、飯島さんとの今生での出会いだったのだと、今の確信です。
「人に付くのでなくて、真理を生きなさい。」
飯島さんの声が聞こえる気がします。
飯島さん、ありがとう。
会えて嬉しかったよ。