突然に繋がってきたこと 6 「出したものが返る」 終章

このシリーズを書いていた昨日、昨日の分が書き終わりを迎える頃、パソコンの操作ミスで全部消えました。すぐに「これは書いてはいけないんだ・・・。」と思いました。それでも今朝からまた始めています。(笑)

意識が遠方に届くことを植物で実験したアメリカの研究者の話題がIN DEEPにちょうど記載されていました。


フォーゲルは、当時、27歳の IBM の上級科学者で、100以上の発明の特許を持っていた。そのキャリアの途中で、彼は、自身の持つ科学知識のさらなる有機応用に興味を持っていたのだ。

彼は、植物により放出された電流をテストした。そして、彼が呼吸し、心の中で思考を巡らせていた時に、心の中の思考が明確で、呼吸が遅い時に、植物たちが劇的な反応を示したことを見いだした。

彼のチームの元研究員だったダン・ウィリス( Dan Willis )は、彼のウェブサイトで、フォーゲルの実験を説明した。ウィリスは以下のように書いている。

「思想に対する植物の応答性は、8インチ(約 20センチ)離れても、8フィート(約 2.4メートル)離れても、あるいは、8000マイル(約 13000キロメートル)離れても同じだった」

「フォーゲルは、プラハから、そして、チェコスロバキアから、彼の研究室のあるカリフォルニア州のサンノゼにまで、植物に影響を与えることができたのだ」


このように研究者の意識は距離に関係なく、何万キロ離れていても植物に届くのだということがわかりました。植物に意識がありそうなのです。

共時性のことが次なる疑問でした。ほぼ同時に同じ発明をする研究者たち。ほぼ同時に同じ行動をし、その行動が同種の動物に次々広がりを見せる現象。

ここに呼吸の「呼」の意味を見ます。
「呼」とは呼ぶこと。

息は意識。意識を出せば(息を吐けば)、その通り返ってくることは宇宙の真理です。意識を出した方にとっての現実を「呼」ぶのでしょうか。

物理で言えば、作用反作用の法則です。押せば戻る力が働く、それが宇宙の真理です。疑問を抱けば、答えが返ってきます。何万キロも離れた場所で、同じ疑問の回答を得た者がいれば、同時期にその同じ回答を得るものが現れても不思議ではありません。動物の行動と意識も同じでしょうか。

では最初の疑問を抱いたものは、どこから回答を得るのでしょうか。疑問を意識し続け集中し、無意識から回答を得たのでしょうか。聖書の「求めよ、さらば与えられん」はまさに至言といえます。心が集中したり、また逆に「無」であればあるほど、解答を得る速さが増すのかもしれません。「無心」こそ疑問解決の鍵なのでしょうか。

いずれにしろこの現実世界はさまざまな意識が混ざり合ってできている世界と言えそうです。出した意識どおりの現実が返ってくるのならば、心から希望するような現実の「息」を呼吸し続けたいものです。さらに「無心」の呼吸を続けることができれば、もうすでに「万事如意」の条件が整ったと言えるのかも知れません。

私達は肉をもってこの世に生まれさせていただいて、呼吸をしながら生かされています。無意識のうちに本能が働き、自律神経、ある事柄についての執着、湧き上がる感動、直感などを各自が持っています。この世にいかされる時間が長くなる頃、普通は意識が芽生え、考え方、希望、夢、計画をもちます。無意識がどこから来ているのか、そして本能や自律神経などはみんな同じなのですが、執着や直感や感動ポイントが何故それぞれ異なるのかはわかりません。

肉体を持ってこの世にあって、さまざまな意識をいだくのはなんのためなのでしょうか。いろんな苦労や喜びや怒り、悲しみなどを体験するのはなぜなのでしょうか。もしかしてこのような生まれてからの意識が、無意識を知るためだとしたら・・・・。

最近は食べない人たちが話題です。
もう50年以上も食べていない愛知県内の女性を知っています。一日青汁いっぱいでにこやかに人生を送る、ふっくらした女性。8年間水も食もとらず、ハイテンションな弁護士さん。インドのヨギである故バラマハンサヨガナンダさんは著書「あるヨギの自叙伝」の中で、たくさんみえる食べない人たちのうちの一人の女性にインタビューしました。その女性は答えました。

「食べないでいることは人間が肉でなく霊であることの証明です。」

食べ物は食べなくても大丈夫かもしれませんが、さすがに空気がなくてはと考えましたが、とんでもない人が日本人にいます。

本屋さんに行きますと、横積になった本の著者ヨグマタこと相川圭子さんがその人です。7年前迄に、インドで10回以上の公開サマディーをしています。ものすごい数の公衆の前で、地下の小さな部屋に入ります。その後部屋の上に土をかぶせます。そして3日の後無事に生還してくるのです。

まさに空気が薄くなるかなくなって窒息するんじゃないかと考えてしまいます。でも冬眠動物たちは、生命レベルをおとして、呼吸、内臓の働きを極限までに小さくし尿などもせずに冬を越します。おそらく人間でも無心の瞑想が、生命レベルを落とすことを可能にし、少ない空気でも生きることをも可能にするのかもしれません。

無と有はまさに無意識と意識の関係。
空と色の関係。
霊と肉の関係。

すべて同じで原因は無であり、空であり、霊であるのでしょうか。そして結果は有であり、色であり、肉。

疑問はまだまだあります。
長崎のあんでるせんで行われる人間の未知能力です。人間の意識が、物質を変化させる。ガラスのビンが伸びる、曲がる。他人の知らないことを言い当てる。物質が空間を移動して額縁の中に入る。紙幣の中に硬貨が入る。はては何百キロも離れた場所へ物質をテレポートさせる。

不思議を詮索すればそれだけで一生を終えてしまいそうですが、何故だろうと疑問を持たないほうが気がふれそうです。喫茶店あんでるせんのマスター久村さんはおっしゃいます。

「人間ならだれでもできますよ。疑問を持ってやり続ければ可能です。やれないのは、やれないと思うからです。宇宙は巨大なフロッピーデスクです。聞けばなんでも答えてくれます。」

ここでも「出したものが返る」真理の言葉が聞けます。

友人のYさんは時空の逆転現象を体験されました。過去の出来事が巻き戻されたのです。体験にかなう証明はありません。またオカルトぽいですが、この現実世界は一様ではないのかも知れません。

また人間の意識は最大のエネルギーです。

「ガラスビンを飴だと強く思えば、伸びますし曲がります。」

久村さんの声が聞こえます。
この現実世界は夢なのでしょうか。

旧約聖書では蛇にそそのかされたイブとアダムは次々に「知恵の樹」の実を食べて、分離感をもちました。有名な原罪のお話です。神さまはその実を食べてはいけないといったのに食べた人間を恐れたとあります。

次に中央の「生命の樹」の実を食べたら、人間が永遠の生命を得てしまうからと、エデンの園から追放をします。人間はもともと永遠の生命だったのです。そして「カバラ」生命の樹は、一本で全体を表す「一体全体」。「あなたはわたし」なのです。

一本の木のどこかの存在である自分という永久の生命は、どこかの部分であり、全体でもあります。だから何かの意識を出してその結果を得れば、その結果は全体に及びます。

出したものが返る真理は、この「生命の樹」にも見ることができます。わたしたちは何故この世に現されて、さまざまな体験をしさまざまに意識を、し生かされているのでしょうか。生まれさせていただいたら肉が朽ちるまで、生まれ続けるようです。そして生前を終えるのでしょうか。

霊肉一体何故?
永遠のたびは、今も続いています。