霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 13 終章 エピローグ 鈴木大拙 「霊性的世界」

終わりにあたり友人から勧められた
鈴木大拙 「仏教の極意」の出だしの
文章のご紹介です。

昭和21年に鈴木大拙さんが昭和天皇に
講義された内容からです。

第一講 大 智

 仏教のお話をする前に、宗教一般についてちょっと申し上げたいと思います。それは宗教が誤解されがちだからです。
仏教も一つの宗教であります。それでまた外の諸宗教のように、生活そのものと何ら直接の交渉を持っていないと考えられることが往々あります。ひどいのになると、宗教はただの迷信でしかない、極楽があろうが、地獄があろうが、そのようなことには、自分等は全く無関心だというのです。まだまだひどいのになりますとこういいます。
ー宗教は群衆を酔わす阿片だ、資本家や官僚はそれを使って群衆を自分等の意志のままに盲動せしめているのであると。少なくとも、宗教排斥者は、神を利己的祈りの対象に過ぎないと見ているのです。
 仏教が宗教としてこれ以上に出ないものとすれば、仏教が吾等日日の生活の上に及ぼす働き、また及ぼさなければならぬ働きというものに対して、これらの人人は何ひとつ了解しているところがないといわねばなりません。

 普通吾等の生活で気のつかぬことがあります。それは吾等の世界は一つではなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界に比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、実はそうではなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、なんとなく物足りぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。なんだか物をなくしたような気がして、それの見つかるまではさまざまな形で悩みぬくのです。即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。

 これは大なる哲学の問題にもなりますが、それはとにかくとして、人生の日日は矛盾に充ちているものです。吾等は大抵それに気づかずに過ごすのでありますが、一旦気づき出すと、その解決に悩むものです。悩みながら、あちらこちらと彷徨いつつ、何とかしてそれから離脱しようとします。 このはてしない努力が進められるにつれて、今まで送ってきた生活そのもののいかに不真実で無意味であったかということが次第にわかって来ます。この段階にまで進んで来ると、吾等は、何かしら次元を異にしたところに別の境界があるのではなかろうかという感じがするようになります。そうしてこの境界は今吾等が現に住んでいる世界よりも真実性に富んでいて、別途の価値を持つもののように感ずるのです。そうしてまたこの世界は、今までこれより大事なものはないと一所懸命にとっておいたものを、悉く抛棄(ほうき)することによってのみ、発見せられるものだというふうになってくるのです。即ちここで霊性的世界の髣髴(ほうふつ)が窺われるようになるのです。

 このようにして、霊性的世界を実際に把握するときーー或いはこういってもよい。霊性的世界が実際に吾等の感性的世界に割り込んで来るとき、日常一般の経験体系が全く逆になるのです実が非実になり、真が非真になる、橋は流れて水は流れず、花は紅ならず、柳は緑ならずということになります。普通では、いかにも奇怪千万と思われることですが、霊性的直覚の立場から見ると、そういうことになるのです、それはこの霊性的世界が一般の感性的・知性的世界へ割り込んでくるとき、吾等の今までの経験をみな否定するからです。しかし間違ってはならぬのですが、これらの経験はそれにも拘わらず、悉く今までの感性的特性を失ってはいないということです。差別の世界は今なお差別の世界ですが、ただ一つの相異がある、それはこの千差万別がそのままで霊性的世界の消息であるという超分別識的直覚であります。換言すれば吾等はここで今まで非現実の夢幻性だと思いすてたものが、畢竟するに、また必ずしもそうではなかったということになるのです。夢幻はその後ろに真実なるものを持っているということに気付くのです。それはなぜかというに、霊性は一方において感性的経験を否定してしまいますけれど、感性的世界はこの否定の故に、その千差万別な知性的分別を、霊性の中に、そのままに、保存して行くのです。

 霊性的世界というと、多くの人人は何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間に対する現れ方だといってよいのです。即ち人間が一つを二つに見るのです。これがわからぬときに、実際二個の対立せる世界があると盲信するのです。吾等の生活しているという相対的世界と、その背後にある(仮にそういっておく)のとは、唯一不二の全を形成するものです。これを離して、各自にそれぞれの特別な価値があるということにすると、両方とも真実性を失います。こういってもよろしいです。ーー相対性の世界は霊性的世界に没入することによってその真実性を獲得するが、それだといって、相対性そのものはなくなるのではありません。無分別の渾沌に還るという意味ではありません。霊性的世界もまたそのように、この理性的分別の千差性の中に割り込んで来ても、それがために今までの差別的経験の体系が混乱するわけではないのです。ただ今までと違ったより深い意味がそこに読まれて来て、この生活が実に価値あるものとなるのです。人生の不幸は、霊性的世界と感性的分別的世界とを二つの別別な世界で相互にきしりあう世界だと考えるところから出るのです。渾然たる一真実の世界に徹せんことを要します。
・・・・・・・・・・・

以上を持って霊性の旅を終了させていただきます。
おつきあいいただいた多くの皆様に感謝申し上げます。

多くのみなさまに霊性的幸いが訪れますように
祈念いたします。

ありがとうございました。