令和4年12月18日をもって近来では
3年半にわたった同志による読書会を
終えました。
ここで過去を振り返りますと、途中
休会の期間をはさみながらも、読書会はおよそ
20年間にわたってさまざまな形で
開催されてまいりました。
早逝の娘も参加したことがあります。
早朝6時よりはじまる読書会は、朝の凛とした
空気の中に、それぞれの方々のお声が
会場に響き渡るだけで、すでにわが魂は
震えていました。
声はその時の意識が声という物質として
私たちの耳で反響します。
意識を聞くのです。
そのさまざまな意識が分魂であるお方たちの
その日その時の状況を知らせています。
最期の修身教授録第39「わかれの言葉」のほんとうの
最後の下学雑話には森先生の大きな
意識が現れています。
※自己の道は、自己においては唯一必至
かつ絶大なれど、他人より見れば、
ONEOFTHEMたるにすぎず。
而してこれを知るを真の自覚とはいうなり。
※自己の欠点を知悉し得ぬところに、
一切の悩みと悲しみは生ず。故にまた
一切の苦悩の超克と解脱は、自己の
如是相の徹見の一事あるのみ。
※大小無量の円において、その半径は
異なれども、円心は、その円心たるにおいて
みな一なり。人もまた自我を消し去る時、
互いに相通ずるの趣に到るを得ん。
最後の最後のことば円心についての
言及はまさに森先生の全一学の真髄
そのものと感じさせます。
すなわちすべての想念の中心である
円心が消えるとは何でしょうか。
それは唐の国に渡った空海が最後の灌頂を
恵果師に受けた時のお二人の会話にみれることでしょう。
12月-。
恵果は病床にあった。
ある日空海は、恵果に呼ばれた。
「お呼びでございますか」
空海は、病床の恵果の前に立って言った。
夜である。
灯火が、ひとつだけ灯っている。
恵果と空海と、ふたりだけであった。
寝床の中で仰向けになっている恵果の
枕元に立って、空海は恵果の顔を見つめている。
恵果は清冽な夜の大気を静かに呼吸している。
「空海よ」
低い静かな声で恵果は言った。
「はい」
空海もまた、静かな声でうなずいた。
「そなたに、今宵最後の教えを授けよう」
「はい」
空海はうなずく。
「金剛、胎蔵、両部の灌頂ではない。
結縁灌頂、受明灌頂でもなく、伝法灌頂でもない。
これより我が説くことは、それらのどれでもないが、
それらのどれよりも貴重な教えじゃ・・・」
恵果は、空海を見あげ、
「いま、わたしは教えを授けると言うたが、
これよりわたしが授けようとすることは、
教えずともすでにそなたが皆承知している
ことばかりじゃ」
そう言った。
「しかし、言うておく。それはつまり、わたし自身の
口から出ずる言葉なれど、そなたがわたしに言う
言葉でもある。
空海よ、わたしがそなたに教えるということは、
わたし自身がそなたに教えを乞うということでもある。
このことの意味も、すでにそなたはわかっていよう」
「はい」
空海はうなずいた。
「空海よ、そなたは、ここで学んだものの全てを
捨てねばならない。この意味がわかるなーー」
「わかります恵果様・・・」
「心は、深い・・・」
「はい」
「心の深みに下りてゆき、その底の底の底ーー
自分もいなくなり、言葉も消え、ただ、火や、水や、
土や、生命そのものが、もはや名づけられぬ元素として
動いている場所がある。
いや、もはやそこは、場所とすら呼べぬ場所だ。
言葉で名づけられぬもの。言葉の無用の場所。
火も、水も、土も、自分も、生命も、わかちがたくなる
場所にたどりつく。そこへゆくには、心という通路を
通って降りてゆくしかない」
「はい」
「それは、言葉では教えられぬ」
「はい」
「わたしは、いや、多くの者たちが、それを汚してきた。
言葉によって、知識によって、儀式によって、書によって、
そして教えによってーー」
「はい」
「これらすべてを捨てよ・・・」
「はい」
「そなたは、捨てよ」
恵果は、つぶやき、そして眼を閉じて、
静かに大気を呼吸した。
再び眼を開き、
「しかし、言葉は必要じゃ。儀式も、経も、教えも、
道具も必要じゃ」
恵果は言った。
「この世の者の全てが、そなたのようではない。
そうではない者のために言葉は必要なのだ。
言葉を捨てるために、あるいは知識を捨てるためにこそ、
言葉も知識も必要なのだ」
「はい」空海は、ただ、うなずく。
恵果の言うことは、よくわかっている。
すでに、全ての灌頂を受け終えた瞬間から、
空海にとっては、あらゆる儀式も教えも
必要のないものとなっている。
全ての皆様に感謝して。