人が真にその心の置き土産となしうるものは、その人がその場所、その位置に置かれていた間、その全生活を貫いて歩んだその心の歩みこそ、否、それのみが、真に正真正銘の置き土産となるのではないかと思うのです。実さい世の中というものは、たびたび申してきたように、正直そのものですから、平生いい加減なことをしていては、いざとなったからとて、今さらどうなるわけでもないのです。実さいその人の歩んだだけが歩んだのであり、積んだだけが積まれたのである。そこでわれわれ人間は、お互いにその日頃の生活において、つねに置き土産を用意しつつあるのだという気持ちを、忘れてはならないと思うのです、生まれたものには必ず死ぬ時があり、来た者には必ず去るときがあります。また逢うた者は必ず別れるべき時のあるのは、この地上では、どうしても免れることのできない運命といってよいでしょう。同時にもしそうだとしたら、わたくしたちも自分が去ったあとの置き土産というものについても、つねに心を用いる処がなくてはならぬでしょう。