ラマナ・マハルシとの対話(TALKS)より 30 真我は・・

質問者

真我は「聞く者、考える者、知る者」などと描写されますが、その後で再び「聞く者ではなく、考える者ではなく、知る者でもない」と描写されます。
そうなのでしょうか?

マハルシ

その通りです。
一般の人は知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)の中に変化が現れたときに自分自身に気づきます。そのような変化は現れては消え去る一時的なものです。それゆえ、知性(ヴィージニャーナマヤ)は鞘(さや・コーシャ)と呼ばれるのです。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31 ー1 「シーヴァ・ナディとは・・」

1939年1月23日~28日 対話616(59才)

質問者

シーヴァ・ナディとは実体があるものなのでしょうか?それとも想像の産物なのでしょうか?
(シーヴァ・ナディ 個人の魂の霊的な神経経路)

マハルシ

ヨーギーたちはジーヴァ・ナディー、アートマ・ナディー、パラー・ナディーと呼ばれるナディー(霊的な神経経路)が存在すると言っています。「ウパニシャド」はそこから幾千ものナディーが派生するセンターがあると述べています。ある人はそのようなセンターは脳に位置すると言い、別の人は別のセンターに位置すると言います。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー2 

つづき

今もなお内在する潜在的傾向がサマーディの静寂を妨げないようにするには、生来のヴァーサナーを根絶しなければならないのです。そのためヨーギーはクンダリーニーを(スシュムナーの延長でしかない)ジーヴァー・ナディーと呼ばれる経路を通してサハスラーラーからハートへと降ろします。このようにスシュムナーは曲線を描きます。それは太陽神経叢から始まり、脊椎を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りて行き、ハートの中に到達するのです。ヨーギーがハートに達したとき、サマーディは永久的なものになります。これでハートこそが最終センターであることが理解できるでしょう。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー3

つづき

 それゆえ探求者の目的は、ハートからヴァーサナーという水を捨て去って、永遠なる意識の光がいかなる反映にも妨げられないようにすることにあるのです。これは自我の源を探り、ハートの中へと潜って行くことで到達されます。これが真我実現のための直接的な方法です。この方法を選んだ者は、ナディーや脳、スシュムナー、パラーナディ、クンダリーニ、プラーナーヤーマ、チャクラといったことについて心配する必要はまったくありません。
 真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体の中に入るわけではありません。真我はただあるままに在るのです。それは常に輝き、常に不動で、揺らぐことも変わることもありません。変化はハートに宿る真我に初めから備わったものではありません。真我は太陽のように、自ら輝いており、変化はその輝きの中に見られるのです。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー4 ヴァーサナー(心の潜在的傾向 自我)

・・つづき

 しかし私は言いました。「どうしてそうありえるでしょう?ヴァーサナーは真我とともに在り、けっして真我から離れて在ることはできません。もしあなたが言うようにハートが真我の座で、ヴァーサナーが脳に含まれるというなら首を断ち切られた人はヴァーサナーから解放され、転生はありえないということになります。それが不合理であることにはあなたも同意するでしょう。だとすれば、真我がヴァーサナーとともに脳の中にあると言えるでしょうか?もしそう言えるとすれば、人が眠り込むとき、どうして首をがくりと落とすのでしょう?しかも自分の頭を指さして「私」と言う人などいません。こうしてみれば、真我がハートの中にあり、ヴァーサナーも極度に微細な姿でそこにあるということは明らかです。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー5 この集中は・・

・・・つづき

 この集中は聖典の中でサンヤマナ(自己抑制)と呼ばれています。人の欲望はこの過程を通して満たされるのです。。それはシッディー(超自然力)と呼ばれています。これがいわゆる新発を起こす方法です。この方法によれば、世界を創造することさえできます。サンヤマナはあらゆるシッディへと導きます、しかし自我が生き残っている間、それらが顕現することはありません。ヨーガによる精神集中は体験者(自我)体験、そして世界の破壊をもたらします。この集中は個人に新しい世界を創造する力を与えます。そのとき、かって存在していた欲望は、気が熟すとともに満たされるのです。この集中は個人に新しい世界を創造する力さえ与えます。
 そのような能力を所有しない者たちにとって、それは素晴らしいものにみえるでしょう。それでも、それは一時的なはかないものでしかありません。はかない物事を追い求めるのは無益なことです。この世のありとあらゆる不思議は一なる存在である不変の真我の中に含まれているからです。それゆえ、世界は内側にあり、外側にあるのではないのです。この意味については「シュリー・ラマナ・ギーター」の第五章十一節と十二節に述べられています。

「2」「シュリー・ラマナ・ギーター」の第五章十一節と十二節
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー6 

・・・つづき

「3」これがバンヤンの木の種子の説明・・
ウッダーラカ(父)は言った。
「バンヤンの実をそこから持ってきなさい」
シェヴェータケート(息子)
「父上、ここに持って来ました」
父「それを割ってごらん」
息子「割りました」
父「そこには何が見えるか?」
息子「小さな種子です、父上」
父「その一つを割ってごらん」
息子「割りました、父上」
父「そこには何が見えるか?」
息子「何も見えません、父上」

父は言った。「息子よ、お前に見えないこのごく小さな種から、この偉大なバンヤン(木)は現われ、ここに生い立っているのだ。息子よ、私の言葉を信じるがいい。「種子とは「それ」であり、この世のすべてのものは「それ」の表現なのだ。」「それ」が「在るもの」であり、「それ」が真我である。シェヴェータケートゥ(息子)よ!お前は「それ」なのだ」

 その源はいかなる次元も、規模も、領域も持たない点です。それは一方では宇宙として拡張し、もう一方では無限の至福として拡大します。その点が中心点なのです。そこから一つのヴァーサナー(自我)が現れ、体験者である「私」、「体験」、世界として拡大していきます。
体験者と源についてはマントラの中に言及されています。まったく同じ姿の二羽の鳥が同時に顕れるのです。
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ラマナ・マハルシとの対話より 31ー7 

・・・つづき

 スカンダアシュラムに暮らしていたころ、私はときどき外に出て、よく大きな岩の上に座ったものです。あるとき、ランガスワミを含めた二、三人が私とともにそこにいました。突然、私たちは小さな蛾のような虫が、岩の割れ目からロケットのように飛び出してきたことに気づきました。するとまばたきをするほどの短い間に、それは数百万にも数が増え、雲のように空を覆ってしまったのです。何とも不思議に思って、私たちは蛾が飛び出してきた場所を調べに行きました。私たちが見つけたのは、わずか針の穴ほどの小さな隙間で、ほんの一瞬の間にあれほどの数の虫たちがそこから飛び出すことが不可能であるのは明らかでした。
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