質問者
真我は「聞く者、考える者、知る者」などと描写されますが、その後で再び「聞く者ではなく、考える者ではなく、知る者でもない」と描写されます。
そうなのでしょうか?
マハルシ
その通りです。
一般の人は知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)の中に変化が現れたときに自分自身に気づきます。そのような変化は現れては消え去る一時的なものです。それゆえ、知性(ヴィージニャーナマヤ)は鞘(さや・コーシャ)と呼ばれるのです。
純粋な気づきが後に残されたとき、それは真我あるいは「至高なるもの」であり、想念が静まった自然な状態に在ることが至福です。もしその至福が現れて消え去る一時的なものなら、それは至福の鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)でしかなく、純粋な真我ではありません。
必要なのは、すべての想念が静まった後に残る純粋な「私」に注意を固定させ、それを手放さないことです。この純粋な「私」は極めて精妙な想念として描写されなければなりません。さもなければ、それについて語ることは不可能です。なぜなら純粋な「私」は真我そのものに他ならないからです。誰がそれについて語るというのでしょうか?いったい誰に対して?しかもどうやって?
眠りの中では真我の気づきは失われていませんが、ジーヴァの無知はその影響を受けずにいます。無知が破壊されるには、この精妙な心の状態が必要となるのです。
太陽の光だけでは綿が燃えることはありませんがレンズの下に置けば、綿は燃えだします。それはレンズを通した陽の光によって燃え尽くされるのです。同じように、真我の気付きは常に存在していますが、それは無知に対立していません。瞑想を通して精妙な心の状態が得られたときにのみ、無知は破壊されるのです。
1.粗大な眼では、極めて霊妙な至高の真我を・・・
至高の真我の真理は極めて精妙であるため、
粗大な視野しか持たない者には体験できない。
だが瞑想によって培った極めて霊妙な心による非常に
純粋な理解を得た有徳な人なら、それを知ることができる。
2.「これは自ら輝き、すべてを観照する」と述べられています。
この不滅の意識という宝は、すべての観照者として自ら輝き続ける。
非実在なるものからあるがままの「それ」を識別し、「それ」を
あなたの目標として、たゆむことなくそれに瞑想し続けなさい。
この霊妙な精神状態は、ヴリッティと呼ばれる「心の様態」とは異なるものです。なぜなら精神状態には二種類あるからです。
一つは自然な状態。もう一つは対象物の姿に変容された状態です。自然な状態が真理であり、もう一つは行為者にしたがいます。後者が消え去るとき、木の実の練り粉を水の中で洗うように前者だけが後に残るのです。
3.無知に侵された自己(ジーヴァートマン)を知る。
この知識の道を絶え間なく修練し続ければ、それは自己を清め、そして消し去る。ちょうどカタカの木の実の練り粉を水で洗うように。
これをもたらす方法が瞑想です。それには(瞑想の主体、瞑想の対象、瞑想)という三位の区別をともないますが、最終的には純粋な気づきに行き着きます。
瞑想は努力を要しますが、純粋な気づきは努力を要しません。瞑想はすることもしないこともできますし。間違ってすることもありますが、純粋な気づきはそうではありません。瞑想は行為者自身がするものですが、純粋な気づきは「至高者」自身のものです。
訳注
ジーヴァートマン 個我
ヴリッティー
存在、態度、条件、方法、精神的活動、定義、行為、解説、注釈、回転、職業、生計、文体など多義に渡る。ウエーダーンタにおいては、心の様態、心の状態、心の機能、心の変容、想念の波動などが主要な意味であり、アハムヴリッティは「私」という想念を意味する。