ラマナ・マハルシとの対話より 31ー6 

・・・つづき

「3」これがバンヤンの木の種子の説明・・
ウッダーラカ(父)は言った。
「バンヤンの実をそこから持ってきなさい」
シェヴェータケート(息子)
「父上、ここに持って来ました」
父「それを割ってごらん」
息子「割りました」
父「そこには何が見えるか?」
息子「小さな種子です、父上」
父「その一つを割ってごらん」
息子「割りました、父上」
父「そこには何が見えるか?」
息子「何も見えません、父上」

父は言った。「息子よ、お前に見えないこのごく小さな種から、この偉大なバンヤン(木)は現われ、ここに生い立っているのだ。息子よ、私の言葉を信じるがいい。「種子とは「それ」であり、この世のすべてのものは「それ」の表現なのだ。」「それ」が「在るもの」であり、「それ」が真我である。シェヴェータケートゥ(息子)よ!お前は「それ」なのだ」

 その源はいかなる次元も、規模も、領域も持たない点です。それは一方では宇宙として拡張し、もう一方では無限の至福として拡大します。その点が中心点なのです。そこから一つのヴァーサナー(自我)が現れ、体験者である「私」、「体験」、世界として拡大していきます。
体験者と源についてはマントラの中に言及されています。まったく同じ姿の二羽の鳥が同時に顕れるのです。

「4」訳注5に見られる「まったく同じ姿の二羽の鳥が同時に顕れる」がそのマントラです。
二羽の鳥はジーヴァ(個我)とイーシュヴァラ(神)であり、一個人の中に存在している。ジーヴァは無知、欲望、カルマから行為をし、その結果(業果)を得る。イーシュヴァラはただ存在し、行為することはない。彼はジーヴァの行為を見守るだけである。ジーヴァとイーシュヴァラの根底にある真の本性、それはブラフマンである。

「5」まったく同じ二羽の鳥が同時に顕れる。・・・
1.いつも一緒にいて、同じ名前で知られる二羽の鳥が、一本の木にとまっている。一方は甘い実をついばんでいるが、もう一方は食べずにただ見ている。2.同じ木にとまりながら、ジーヴァは嘆き悲しみ、自分の無能さに途方に暮れている。だが、生きとし生けるものすべてから崇拝される主を見るとき、彼は嘆き悲しみから解放される。3.見る者が、自ら輝く創造主、神、プルシャ、ブラフマンを見るとき、彼は善も悪も払い棄てて純粋無垢になり至高の合一に至る4.彼は実にプラーナ(生気)である。彼は生きとし生けるものすべての内に輝いている。
 彼を知る賢者は言葉を無駄に語らない。
真我の内に歓喜し、真我の内に満たされながら行為する。彼はブラフマンを知る者でも最上位にある。

  つづく・・・