マトリックス

今まで生かされてほとんど映画のような人生です。たぶんどなたでもそうでしょうけれど。映画なのに妙にうなずいてしまう映画が「マトリックス」です。

全時間全空間が過去未来なく全方向に自らが生かされています。そしてそれをあやつる存在がある。もしかしたらそれは登場人物である自分自身かもしれない。すべてのすべてを生み出すとろとろの黄金の光が自分。もし自分だとしたら、こうしている場合じゃないですよって思ってしまいました。

主人公は俳優キアヌリーブス。

一時期心を病んで、その彼の奇行が知らされたりしていました。彼のことが書いてある赤塚さんのブログを今朝拝見しました。人生で大変なことがある人は大変だけれど、何事もなかったかのように生きているのを見ると、人々に勇気と真理を与えるのかもしれません。シェアしていただいたら嬉しいです。ここです。

キアヌリーブスの気持ち

「永遠の業の世」 IN DEEP から

今日のさまざまの言葉でおもわずうるっときてしまったのは、IN DEEP さんの「永遠の業の世」の中のついこの前の施設での大きな事件について、「これはおそらく自分たちすべてが起こしている」ということばと、「新型出生前診断では、多くの親が中絶をしています。障害者を殺してもいいという発想と、障害を持つ子どもは要らないという考えと、どこが違うのでしょうか。」という言葉。いろいろそしてさまざま(同じですね)な思いがおありでしょうが。ここです。

永遠の業の世

マザー・テレサ 愛の贈り物

自分には愛という言葉はとても遠くて、なんだか恥ずかしい言葉なんですが、1997年に肉体を脱いだマザー・テレサにはとてもぴったりの言葉です。

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この土曜日、文庫本になった本が、著者の五十嵐薫さんから送られてきました。「インド心の旅」を主催しおそらく日本人でもっともマザー・テレサさんと親交が篤く、マザーの帰天の日にもインドのコルカタのマザーハウスにいて遺体に立ち会った方です。

実際に彼が経験した話ばかりなので、読むものの心に深く刻まれる言葉群です。インド心の旅に五十嵐さんにご案内いただいた時期には、すでにマザーはこの世にはみえず、マザーハウスの一番後ろのいつもマザーが座っていた場所にはマザーの人形がありました。

You did it to me.
(あなたが私にしてくれた)

マザーが講演の冒頭に決まって話す五本の指のこの言葉が胸に迫ってきます。通常忘れがちな大切なことを教えてくださる本だと感じます。

人として生まれて・・・

この数週間の間に、たくさんの方々から私設飲み会のお声がかかりました。久しぶりの方、近くの方、久しく断絶していた方、学区の方などからです。それで短期間にたくさんのアルコールをいただいたので、肉体(心臓)が悲鳴を上げていました。

それでこの2日間本当に幾年かぶりにアルコールを口にしませんでした。すると夕食がとてもたくさんの量になります。なのにいつもは眠くなるのですが、眠くもならないのです。

今朝午前2時、急に目が醒めまして、何故だか机に向かい紺色のブックカバーに包まれた本を取り出していました。森信三先生の「修身教授録」でした。なにげなく最初のページを開きます。先生が40歳の頃教員志望の学生に行った講義の記録です。

一番遅筆の生徒を窓際の前の席に座らせて記録をお願いしました。そしてその生徒の記録のスピードに合わせて講義を行われました。昭和12~3年の頃のことです。戦前の修身といえば何か古臭く感じるのかもしれませんが、その「修身教授録」にある言葉群は、まぎれもなく現代のそして未来の人々に行き方の原点を示すものと感じます。人間の年齢に関わらずです。

第一節は講義をする生徒に向けてのメッセージです。何故先生と生徒は出会ったのか、そして何故この講義が開かれたのか。必然の出逢いを真剣にゆっくりと説いていきます。講義が終了し、必然という言葉に合点のいかない生徒が先生に質問します。

「先生私には先生との出逢いが必然とは思えないのですが。」

先生は答えます。

「まあそう思っても一向にかまわないですよ。諸君たちはまだ若い、私のような年齢になれば人間の出逢いが必然だと気が付くことでしょうし、またそのように思ってこれからの人生を生きるか、または思わないで生きるかでは人生の意義が大きく異なるとおもいますが。」

というようなことをおっしゃって静かに教室を退室されます。生徒はうわさに聞いていた以上にしっかりとした重みのある講義に魂を打たれるものが多いようでした。

第二節は「人として生まれて」でした。

私達の周りを見渡せば、雑草だけでもものすごい種類になります。また動物の種類をあわせると膨大な種類になります。なのに何故私達は人として生まれたのでしょうか。誰でも人生一度は人間として生まれたのは何故なのだろうと疑問を持ち、さまざまな考えをめぐらせます。しかし人生を経験していくうちにそのような考えは次第に遠のいていきます。そして人生のさまざまな雑事に翻弄され、真に人間として生まれた意義について深く考えることもなく人生を終えます。人間ならば絶えず自分が人として生まれた意義を心のうちに秘めながら人生のさまざまな事柄に対処していきたいものと思います。文章が少し違っているかもしれませんが、一気に読み進む重い言葉群です。

そして第三節は「この国に生まれて」です。

世界にたくさんの国がある中で、この大和の国に生まれたというのは何故なのでしょう。今に至る、親や先祖、そして遠い民族の連綿として続く血脈が私達の中に流れていることを知らねばならない。思い出せと言うかのように深夜の心に響きます。

「修身教授録」忘れずに読み進みたい本です。
今回で6度目くらいになりました。
再びの始まりです。

人はどこにいるのか

世界が平和になったらほんとうに自分は平和なんでしょうか。自分が平和であることと世界が平和であることとはどんな関係があるんでしょうか。

自分の見ている世界は自分の意識の現れといわれます。でしたら自分の心しだいで平和かどうかが決まります。平和だけでなく幸せ感もそうです。満足感もそう。世界がどうであろうと、ほかの人がどうであろうとようは自分の心しだいです。

そんなこと言ったって、どこかの国が攻めてきたらそんなこと言っていられないよ、と人はいいます。攻めてくることを見る人と、見ない人がいます。見る人の意識と見ない人の意識がちがうようです。会社や学校で意地悪な人がいて自分をいじめると悲しんでいる人がたくさんいると聞きます。

意地悪な人はほんとうにいるんでしょうか。
意地悪な人ってどこにいるんでしょうか。

やってみるしかないですね。やってみて、自分が体験したことしか確信が持てないように人間はできています。人からの話はそれこそ嘘っぽいですね。ほとんどの方は偉い人の話とか、他の人の体験話を信じて確信したかのように話します。自分がしたこと以外は、というかそれもですがすべては幻想と思っていいようです。ほんとうに意識しただけの現実を自分が見ているとしたら、その確信を得たら、もう意識を自分流に持っていくしかないですね。自分が嬉しいように、喜ぶように。それはきっとみんなが嬉しくて喜ぶことと同じかもしれませんね。

気づいて行動することの連続から、真理が見えてくるかもしれませんね。ほかの人から言われて動くのでなくて、自ら動き続けることが大切でしょうか。

「出した意識が返ってくる」が真理です。

信じないでくださいね。(笑)

谷神(こくしん)

真理は勉強したり理解したりするものでなくて、気づくことなんですね。個人が気づかなくても、厳然としていつも真理の中にあるわけです。

だからなんだかいつも集中して一つことに今を生きている人そのものですね。それも楽しくて楽しくて仕方ない人はすでに真理に生かされていますね。そこに善悪や正邪の判断はありません。

欲って言葉って 昔神様は谷に住むって言う伝えがあって、だから神谷さんっていうのかと変に納得したことがありました。だけど神様はあるっていうか、形がなくて一つし かないようなので、それはなんだろうって思ったら、飯島さんに会ってそれは真理法則のことと納得しました。

だったら欲って言葉がわかります。
谷が欠けている。

谷は神様の住むところだから、いいかえれば、神様は住むわけないので、真理そのものが谷。真理そのものが欠けた生き方が「欲」ですね。

真理とは分離感のない「元一つの源」が私達のふるさとと、気づいて生きることですね。現実と思われる世界のどんな欲望も、元一つの源を感じることに比較すれば、比較しようのないちっぽけなことでしょうか。

車の運転中に「そこ」にはいった飯島さんは、「目にワイパーがいるよ」って言いました。激しい慟哭と涙は、何にもかえがたい感慨のようです。先日のテネモスミーティングのGさんもそうでしたね。

「いつも喜んでいなさい。」

イエスさんがほほえんでいます。