焼き塩水の効果時間について
塩をフライパンでいったり、無水エタノールで焼いて作った焼き塩の水溶液は、アルカリ性になります。その焼き塩が酸性にかたよりがちな食物を中性に戻すはたらきがあることはご存知のとおりです。その焼き塩は作りだめができないといわれてきましたが、その質問はいままででも多くありました。
そこで焼き塩を焼いた直後の焼き塩水と、時間が経過した焼き塩で作った焼き塩水が、どれくらいアルカリ度が異なるのかを調べました。
まず通常の塩はほぼ中性です。7付近です。
焼き塩を焼いた直後は8.5でした。(写真は神社用の焼き塩水)
それが一時間経過した焼き塩で焼き塩水を作ったら 8.1になり、翌日まで放置してまた焼き塩水をつくったら7.1になり普通の塩と同じになりました。ですから焼き塩の作りおきは意味がないようです。
さらに作った焼き塩水が時間の経過によってどれくらいアルカリ度が変化するのかをみました。最初は8.6でした。
そのまま一時間後です。 8.4に落ちました。
さらに経過観察しましたが、5時間後には7.4となりました。この結果から焼き塩水の効果は3時間くらいが限度でしょうか。
ある集い
およそ一年ぶりに飲み屋さんでの集い。学生時代の5名が(いつもですが)集いました。70歳近くの年齢になりますと、さまざまなそれぞれの家族や親類の方の変化が大きく、また自身の体の状態も変化して、すこし開催の時間的な間が伸びていました。
酔うほどに話が広がって、4時間です。四国巡礼の旅に出かける機会が多い方もみえて、「般若心経」や「この世の真理」の話にもなりました。仏説についてその意味は「色即是空 空即是色」につきること、不変なる物は空で、変化するもの(無常)は色、とわかったような言葉が酔いに任せて口をついて出てきました。
翌日再び心経の意味を調べていました。今まで何度も学んではいたのですが、その場その場で理解が違う感じです。宇宙や人生の真理を知って、そのあまりの単純さに心打たれたブッダでしたが、このことをたった一言の人は「無明」ということばで語り、「無明」を去れと説き続けたようです。仏教の始まりです。
「心経」の学びから始まって、仏陀のことばの調べから気になった言葉群を紹介させていただきます。
- 最大の名誉は倒れないことではない。倒れるたびに起き上がることである。
- 因果によるものはすべて「無常」 このことを知るとき、人は苦しみから逃れられる。
- 眠られない人に夜は長く、疲れた人に道は遠い、正しい教えを知らない人にその迷いは長い。
- 壮大な岩が風に動じないように、賢者は非難と賞賛に動じない。
- 地上の王座より輝かしく、世界の支配よりすばらしきものは、解脱の最初の法悦の瞬間である。
- 愚かな人は「私には息子がいる」「私には財産がある」などと言って、それで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてや息子や財産が自分のものであろうか。
気になるってことは、できていないことなんですね。まずブッダの「無明をされ」を日々すこしずつでも実践したいものと感じさせます。
名古屋駅前の町に山車が三台
今年10月の神無月に祭りが集中しました。
土曜日の22日は名古屋駅前にある三台のうちの一台「唐子車」が同じ中村区の太閤秀吉さんの神社、豊国神社での「中村区民まつり」に特別参加しました。その帰路にある笹島交差点のスパイラルタワーの前で提灯を点灯しました。名駅南にある三台の山車のイルミネーションが完成したので、その点灯式に花を添えました。
「30年も住んでいたけど、この町に三台も山車があるなんて、知らなかったです。」
とある婦人の方。ツインタワーが見える場所のスパイラルタワーの前で「唐子車」の提灯に明かりがはいりました。
三台の山車の説明と共に、イルミネーションが点灯されました。
魂の科学~人体科学会サロン・シンポジウム
10月はお祭りの月 唐子車
住まわせていただいている町内に山車があります。
「唐子車」(からこしゃ)と言います。
その山車を町内の住人が少なくなったことを受けていただいて、学区の方たちが山車巡行にご尽力いただいてます。その方たちと唐子車の写真が撮れました。
町内のある場所でのからくりの実演です。
そして夜は提灯を灯して、若者の方たちが山車を動かします。
「永遠の汀(なぎさ)に立ちて」 生命の光 手島郁郎 師
毎月横浜から送られてくる「生命の光」ですがもう15年近く読ませていただいてます。
イスラエルへのたびの後、知人となった方からの贈呈が毎月あるのです。幕屋ですから、神はどこにでもあって幕を張ればそこに神が降り立つと考えるらしいのですが。教会を持たず旧約新約聖書を学んでいく集団です。
その今月号の「永遠の汀(なぎさ)に立ちて」がとても心に響きました。創始者の手島郁郎さんの言葉です。少し抜粋です。
- 時間という次元を突破して、永遠の次元に一歩踏み入れた人間は強く逞しい。ここに真に人生に勝利する解決がある。死におびえている間は永遠の生命というものはわからない。
- 80年~70年の生涯においてもっとも大事なことは次の永遠界を確かめることです。これ以上にえらい仕事はありません。
- 「永遠より永遠まで」ということがわかったら、私達は活き活きと生きられる。隠れたる世界が見ゆる世界を造っている。
- 聖書では、時間は未来から過去に流れていると考える。過去のカルマが現在ではなく、真の信仰の人はすべては永遠の世界から流れてくる、神の前から、時は流れてくると知っているので泣き悲しまない。
- 自分の過去がどうあろうが、過失があろうがそんなことはどうでもいい。過去も現在もすっかりひっくり返すような、ものすごいエネルギーをもつ流れがある。神の時が未来という世界から現在に向かって流れてくるものすごい生命の川がある。
- 過去を振り向くものは時間の奴隷となり、未来を見るものは時間の主人となる。私達は人生でうまくいかなくなったり、悲しい出来事にあったり、苦しい体験をしますと、何故自分ばかりがとか、ときには何か前の世で悪いことをした報いなのだろうかと自分を責めたてます。イエスキリストは言っています。「すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、我汝らを休ません」イエスは常に変わらず、私達のすべてを赦しています。永遠にです。そしてもちろん私達でもそのことはできるのです。
こちらはクリスチャンではないです。
でも言葉はとても美しいのです。
時空間はエネルギーであって、ただの現象幻想でしょうか。
秋の風
今日は会社の近くのご老人お二人がある集いの勧誘に会社を訪問されました。もちろん面識のない方ですが、なんとなく昔会社の経営者ぽい方々です。
それで勧誘の趣旨はGLAへのお誘いです。今は高橋信次さんの次の高橋佳子さんが柱です。高橋佳子さんとお聞きして、すぐGLAとお答えしたものですから「いつからご存知ですか。?」と質問されました。「20年位前からです。」とお答えしますと、驚かれて「実はこのご案内御社が始めてなんです。初めてでとても元気をいただきました。」といわれました。
GLAの説くことは「人は永遠の生命を生きる魂の存在」です。そのことを理念に団体として行動し、会員の方々が切磋琢磨してその理念を守っていくことに努力されているようでした。「宗主なく、会費なく、選民意識なく、教義なく、恐怖心なく」がこちらの判断材料ですので、それには該当しません。これもまた自我ですが。
それにしても今のような時代に必要と判断されているのでしょうか、お二人のご老人は若者のようにさわやかに去っていかれました。6年間水替えのない水槽にたくさんいためだかは1尾に、そして4月19日から育成の海老はついにやはり1尾になりました。いつのまにか1尾なのです。この1尾の姿が見えなくなったらおもしろいです。ちょっと恐いですが。水温14度が生死の分岐点です。その10月が近づいてきました。一雨ごとに秋の風が近づいてきそうです。