森 信三 運命をひらく 365の金言 33 「牛にひかれて」

牛にひかれて

人間誰しも始めのうちは、牛にひかれて
善光寺詣りなり。
師にひかれ、朋友にひかれて、
お義理に修行の緒につく者多し。
故にまたかかる縁をつくり、
牛を見付けるよう心掛くべきなり。
同時にそのさい、牛はすべからく日本一の
でっかい牛が良し。

森 信三 運命をひらく 365の金言 34 「真の誠」

真の誠

 真実の道は、一体いかにして興るものでしょうか。それには、「自分が道をひらくのだ」というような一切の野心やはからいが消え去って、このわが身わが心の一切を、現在自分が当面しているつとめに向かって捧げ切る「誠」によってのみ、開かれるのであります。

 が同時にそれだけに、この誠の境地には容易に至りがたく、実に至難なことだと思うのです。と申すのも、お互い人間の誠には、「もうこれでよい」ということはないからです。すなわち、「もうこれくらいならよかろう」
と腰を下ろしたんでは、真の誠ではないからです。真の誠とは、その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、しかも常にその足らざることを嘆くものでなくてはならぬからです。

森 信三 運命をひらく 365の金言 36 「働きは一倍半、報酬は二割減」

働きは一倍半、報酬は二割減

 真に意義ある人生を送ろうとするなら、人並みの生き方をしているだけではいけないでしょう。それには、少なくとも人の一倍半は働いて、しかも報酬は普通の人の二割減くらいでも満足しようという基準を打ち立てることです。

 そして行くゆくは、その働きを二人前、三人間と伸ばしていって、報酬の方は、いよいよ少なくても、我慢できるような人間に自分を鍛え上げていくんです。

 実際人間の偉さというものは、ある意味では働くこと多くして、しかもその受けとるところが少ない処から生まれてくるるとも言えましょう、ですから諸君らも、まず人の一倍半の働きをして、報酬は二割減をもって満足するという辺りに、心の腰をすえてかかるんですね。

森 信三 運命をひらく 365の金言 38 「人と禽獣との違い」

人と禽獣との違い

 われわれ人間は、自己に対する反省と自覚を欠く間は、この天地大宇宙の間にありながら、しかも天地人生の道を明らかにし得ないのであります。かくしてわれわれ人間は、自己がこの世に生まれ出た真の意義を知り、自らの使命を自覚して、いささかでもこれを実現しようとするところに、人と禽獣の真の本質的な違いがあると言うべきでしょう。
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森 信三 運命をひらく 365の金言 39 「野心と志の区別」

野心と志の区別

 人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは、火を点けられて初めて光を放つものです。同様に又人間は、その志を立てて始めてその人の真価が現れるのです。志を立てない人間というものは、いかに才能のある人でも、結局は酔生夢死の徒にすぎないのです。そして酔生夢死の徒とは、その人の心の足跡が、よたよたして、跡形もなく消えていくということです。
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森 信三 運命をひらく 365の金言 40 「真の大望」

真の大望

 国家の全運命を、自分独自の持ち場のハンドルを通して、動かさずんば已まぬという一大決心の確立した時、その寿命は、天がその人に与えた使命を果たすだけは、与えるものです。それよりも永くもなければ短くもありません。
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