随想 伊路波村から115 〜人は病によって死ぬのではない

10日ほど前あるお客様が会社にみえた。

ほんとうに久々のご訪問だった。
ガンの宣告をうけて7ヶ月。
もう手術もできないと、お医者様から
サジを投げられていた方で、
7ヶ月間「太古の水」を飲みつづけて
ガン細胞が消えてしまった方である。

「元気になったよ 仕事もできるようになって
医者が こんなこと初めてだと 驚いている」

そう お元気におっしゃって お礼を言われて
帰っていくのを お見送りした。
昨日朝 その方の訃報が届いた。
ああ  あの日 ご挨拶にみえたんだ。

9日(一昨日)仕事をしてみえて、
気分がわるくなり、病院へ、そのまま
旅立っていかれた。(肺炎とか)

ガンで苦しみながら 病床生活を送ることは
まぬがれた。あっけないお別れだった。

25年前 新しく創業した頃、お客様を廻った。
かばんの中に金きりはさみをイッパイつめて、
なんとかお取引をはさみから始めていただけないか
お願いして廻ったのである。

このお店をそんなある日の最後に訪れた。
店の先代社長さんとこの現社長さんが応対
していただいた。お願いすると

「かばんの中のはさみ全部の種類おいていけよ」

と言ってくださった。
その日から 会社で一番の売上のお客様になった。
暖かいお言葉に 溢れるばかりの人間の情を感じた。

その日から25年 先代さんが亡くなり、
現社長もこうしてお別れの日を迎えた。

70歳をこえた年ごろ。
「もう仕事も 頼まれただけしかしないよ。
何をやっていいのかわからないから 遊んでいる」と
明るく語った 思い出の日。

人は決して病で死ぬのではない。
そのことの確信をいただいた社長さんの死。

仕事を継ぐ子供さんもなく、
どんな思いだったのだろうか。

今夜は彼の通夜である。
ほんとにお世話になりました。

天音天画 020203

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いわひうた きみがよは にごらで たへぬ みかはみず

すへすみ けらし くにたみも げに ゆたかなる よものうみ

ほっかひ なんかひ とうてんこふ しゅごし たてまつる

しかひの りゅふおう ゆうし さんさん おみわたる

れいわの ひかり かがやき たいらに てらす

あしもと くにのそこ かためて かためて たいらに ならし

こころも そへて ばんじ にょひ いしきが みへたら

うごきだす つむぎだし かたしめし へいせひの みよに

かさねた れいわの あかし いちから はじめて

ならす てんめひ くみて しきたり まつに つる

ふたへ みへ いとを とおして すずつけて

たけに あきづき ぎんこふの かがやき うめに うぐひす

はるつげる ときの まも みたり きいたり

ためしたり あかし もとめて かたしめし かずしめし

ひとりが ひとつ ふたりで ふたつ ひぃふぅみぃ

さんふく つひで なり あがる かたしめし

やまとびの うつくしき しぜんの ながれを きほんに

おきて くにつくり ものつくり ひとつくり かたしめす

れいわの ひかり こうこふと はなち はじめる

この てんめひき れいわのき

令和二年二月三日 午前4時32分

随想 伊路波村から116〜支援者とは

岐阜のMさんから一通の手紙が届いた。

Mさんがこの4/19岐阜の羽島駅ではがき道の坂田さん
ご夫妻とお逢いになった折、みあげにいただいた書付が
入っていた。「リーダーについての覚え書き」(未完)とあった、
坂田さんが奈良のはがき人の集いの朝、書き記したものらしい。
「ほんとのリーダーは人知れず、他の人を支え、援助する人だよ!」
坂田さんの甲高い声が聞こえるかのようだ。

読ましていただくと、できていないことばかり。
「できていないことばかりだね」と家内にいうと、
「全部できたら神様。この世にはいないわよ。」
家内はやっぱり リーダーです。
そしてみんな自分の人生のリーダーで、主人公です。

「リーダーについての覚え書き」(未完)

*最近リーダーという言葉をよく聞きますが、真のリーダーとは、
 支援して止まない人のことです。

*支援者とは たえず縁ある人の幸せを考えて願い 自分のことは
 あとまわしにする人のことです。

*支援者とは、組織をもたず、権力に近づかない人です。

*支援者とは 良いことをしているとは気づく人がいない人のことです。

*支援者とは 夫婦仲がよく、家族を大事にして、一旦ことあらば
 縁ある人様のために全てを 命までも投げ出せる人です。

*支援者とは 集落のすべての人にいいことは譲り、自分は後ろから
 とぼとぼとニコニコわらいながらついていきます。

*支援者とは 租衣租食で、一汁一菜が良いと思っている人です。

*支援者とは 愚痴悩み悪口などは 母親の胎内に置き忘れて
 きた人です。

*支援者とは すべての物を大切にして使いきり 声をかけて
 対話して 喜ばせて使います。

*支援者とは 人生を卒業して四十年、五十年過ぎて いい人
 だったのだと気づかれることもあります。

*支援者とは 時として妻に(夫に)逃げられることもあります。
 全財産をわたします。

*支援者とは 水を大切にする人です。

*支援者とは お金を大事にして、喜ばせて使える人です。

*支援者とは 人様が騒いでいようとも ただ一人で自分の信念の
 道をたんたんと歩いている人です。

*支援者とは 最下一番下にいて それとなく、すべての人を支えて
 いる力持ちです。

*支援者とは 子供からも慕われる人です。

*支援者とは 愚痴などのたぐい一切言わないでたんたんとその道を
 歩ける人です。

*支援者とは ほのぼのとした余韻を残す人です。

*支援者とは 人々から忘れられている人です。

*支援者とは どこから見てもにこにこ笑っていて朗らかな普通の
 人です。

*支援者とは 偉いところが一つも無くて 子供のように
 心がきれいな人です。

*支援者とは たえず本を読み 縁ある人に葉書を書き いつも
 人生を工夫している人です。

*支援者とは 掃除の楽しさ深さをつたえている人です。

*支援者とは 自分の根源 親を大事にする人です。

  15,4,23 奈良の朝 書き記す。

随想 伊路波村から117〜師と畏友

四日市のUさんからひさしぶりに、ひとり新聞
「むーびーず」が届いた。長く中断していた。

最近四日市へ彼が生涯の師とこころに決めている、はがき道の
坂田さんが彼のために駆けつけてくれた。
そしてひとり新聞の講習会のようなものをされた。
さらに「どうしても行きたいです」といっていた彼は去る10日、おそらく
一人で広島のもう一人の尊敬する川原作太郎さんを訪ねているはず。

そして12日久々の「むーびーず」が届いたのだった。
Uさんは一見ひょうきんな人と目にうつる。

そんな彼だが、幼い日に父親を亡くしている。
父親のなきがらをリヤカーに乗せ、前をお母さんが
後ろを幼い彼が押して病院へ行ったと聴いた。

そんな彼は高校生の頃から貯金をしつづける。
会社で働き、結婚するかしないかで会社を辞める。

好きな映画や音楽の店を開業。事業資金の元手は
高校生から貯めた一千万円をこえる貯金だった。

開業してから16年が経った。
その間に坂田道信さんという生涯の師にであうことになる。
初めて師の姿を見ただけでボロボロと涙がでたと聴く。
生涯で魂の邂逅ともいうべき師に会える人は幸いといえるだろう。
そんなに出会えるものではないから。

そして彼の友達鈴鹿のBさんが結婚した。

結婚披露宴の席上で新郎のBさんはUさんを
マイクで紹介しながら感極まっていた。

「僕が設計事務所で独立したいと言ったら、このUさんは
そしたら一番最初のお客にして と言ってくれました。
その言葉で独立する自信に——」

Uさんは幼い頃からの母と子のふたり暮らし。
人の痛みや不安が分かる人になっていったのだろう。

素晴らしい師と得難い友人に包まれてUさんは幸せです。
彼は約束していた人生を立派に歩いています。

「そんなんちがう  そんなんちがう」Uさんの照れる声が
聞こえてきます。

いつまでも友達でありますように。

随想 伊路波村から118〜決断

もう30年前のお話です。
海外への旅がらみの。

私たちの業界では、仕入先のメーカーさんが
中心となってその鉄鋼製品の販売代理店が
私たちのような問屋を束ねて会を組織します。

T会となづけられたその会はT製鋼さんがメーカーです。
T会では2年おきに海外旅行に行きます。
その年の旅行先はトルコとエジプトでした。

とても行きたかった地名が旅行案内書にありました。
それはルクソール。
だからそのたびへは参加をさせていただきました。
全国から総勢40名ほどの人が集いました。

「飛んでイスタンブール」
最初の訪問地はトルコ。
歴史ある街や史跡を訪ね、夜はベリーダンス(おなかをくねらせる)
を見ました。
そして東郷ビールも知りました。

ボスポラス海峡を遊覧する舟の中では、
ロシアから密輸入されるキャビアの缶詰を販売していたので、
それを全部買い占めて、一部を肴(さかな)にして
日本から持参した日本酒パックの酒を船内で
仲間と飲んだのがなつかしいです。

一緒に飲んだ愛知の他問屋の社長さんは後継者の
方が身内になかったのか、今は社長業を番頭さんに譲っています。

翌日イスタンブールで一泊し市内観光をして、
夕方エジプトのカイロに向かうため空港へ。
そしてチェックインをして搭乗口のところで
みんなが待機します。

カイロ行きだけあって韓国の人たちやヨーロッパや
イスラム諸国の人たちも一緒です。

事件はこのあとおきました。
搭乗の時間がきても案内がないのです。
待つこと3時間。

何かトラブルがあったのか、特にアナウンスは
ありません。
ツアーコンダクターの方が係りの人に
訊いても、わからないというお返事です。

みんながイライラしながらなお1時間ほど待ちました。
やっと搭乗口がザワザワして搭乗開始となりました。
予定時刻を4時間あまり過ぎていました。

それから遅れた説明があって、それは飛行機の左後部の
ドアが閉まらないという理由でした。
ほんとにシマラナイ話です。(笑)

搭乗後も飛行機は少しも出発する気配をみせません。
そして何かそのドアのところで係りの人が必死に
修理をしています。

結局1時間ほど機内にいたのですが、
もう一度搭乗口へ逆戻りで待機となりました。
そしてさらに2時間待つことになるのですが、
それからさまざまな国の国民性を目撃します。

ヨーロッパの人たちは静かに本を読むか
眠っています。
イスラムの人々は神様の言うとおりと達観の姿勢。
韓国の団体は一部の人たちが閉じられた
搭乗口のドアを足でけって、なんだかわめいています。
そして日本人といえば、代表の幾人かを立てて
飛行機会社の代表と直談判する行動を起こします。
それぞれの姿が見えました。

結局7時間待って、飛行機は飛ばず、一応
まる一日待って翌日の同時刻の飛行機に乗る
予定となりました。

飛行機会社の用意した空港近くのホテルに
移動です。

そしてH商事の社長さんと同室にて休むことに
なりました。雑談の中で社長さんは言いました
「あのね、谷底へ水を汲みに行くのなら
どうせなら大きなバケツで行きなさい。」
松下さんの水道哲学です。

眠りに入ったのは午前3時、
そして午前6時、町中に響き渡るコーランの声が目覚ましとなりました。
午前8時ホテルのロビーに全員が集合。
みんなでこの先の旅行の相談です。
T製鋼の社長さんが、少し高くなったイスの上に立ちました。

「みなさん!!、ご存知のとうり昨日は飛行機の不備で
カイロに出発することができませんでした。
そして本日、昨夜と同じ時刻にカイロに向かう予定と
成っていますが、航空会社に問いあわせをしましたところ、
昨日と同じ飛行機を修理して、その飛行機で飛ぶことに
成りました。

そこでみなさんにご相談です。
このままエジプトへその飛行機で飛ぶのか、
エジプト行きは断念して、他のスケジュールを組みなおして
トルコで旅を続けるのかの選択をしなければなりません。

ただエジプトに行っても、翌日の予定であった
今回の旅のハイライトであるルクソール行きはキャンセルとなります。
ご意見のある方はどうぞご発言ください。」

この社長は2代目さん。
若くてすこしファンキーで、芸能好き。
横浜に撮影スタジオを副業で作るような方だ。
そしてそんなにリーダーシップがあるようには
思われなかったのに、大きな声ではっきりと
みなさんに呼びかけたのには拍手を贈りたかった。

さまざまな意見が飛び交った。
「同じ飛行機じゃ怖くてイヤだ。!」
「ルクソールへ行けないんじゃ、エジプトへ
行っても意味ないよ。!」
「トルコをもっと見たい。」
「飛ぼうよ。エジプト行きたい。!」
みなさんの意見をじっと聞いていた社長。
だいたい意見がでなくなるころ、はっきりとした口調でこう言った。

「みなさん!みなさんのご意見はわかりました。
結論を申し上げます。
旅はこのまま続けます。
今夜エジプトへ発ちます。」

毅然とした大きな声が盛大な拍手を呼んだ。
立派な決断力でした。

そして飛行機はエジプトへ旅立ち
カイロに無事降り立ちました。
まさに命がけの飛行。

着陸時には各国の人々が同じように
大きな拍手をして無事を喜び合いました。

われわれが帰国してほんとにしばらくして、
ルクソールでのテロで幾人かが亡くなる事件が報道され、
その中には日本人の新婚夫婦の方も含まれていました。
大きな感慨がありました。

その後、T製鋼の勇敢な社長はS日鉄に会社を譲り渡し、
私たちの直接の取引先のN鉄鋼の社長も先代が起こした
会社から身をひきました。まだおふたりともお若い。

現在T製鋼は他の2つのメーカーと合併した姿にて存続しています。
世の中の事情は変化しました。

でも、あのときのあの決断がその後の
彼の人生を決めたような気さえします。

人は「ソレ」を学ぶのでしょうか。

私の人生ではまだルクソールが呼んでいます。

随想 伊路波村から119〜伝える

文、手紙、ハガキは昔から
ことやものを伝える道具だった。

人間の意志を伝えることがこのような
道具のみで成り立っていた頃は実に
ゆったりとした時間が流れていたことだろう。

印刷ということが可能になって、
ものやことは一度に多くの人々に
知らせることができるようになった。
そして多くの人々の感化が進んで、
同一化のスピードは飛躍的に速くなった。

電話ができ、肉声で感情や意志を伝えることが
できるようになった。
距離はまさに0となった。

そしてラジオやテレビの発達が、
時間や空間の壁をこえさせた。
その一方大衆を管理誘導することも
統治する側にとっては容易になったのだ。

携帯電話が登場し、当時のツーカーセルラーの
代理店001の番号をいただいた時、
携帯の限りない発展を予測した。

それは時間や空間を越えて、まさしく個性に
一直線に行ける魅力が人間を大きな力で
引き寄せることだろうと予想したからであった。

しかしながら携帯の加速度的普及期に
、直感から突然に代理店を辞してしまった。
ただの直感からだった。
なんだか今はホッとしている。(笑)

そして現在はメールが全盛である。
メールは個性の尊重を考慮した
陰の肉声となった。

個性を無視したおしつけメールも多くなったことは
そのようなとても個人にとって嬉しいメールという
機能の影の部分なのだろうか。

ご縁ある人々とのコミュニケーションが
より多くそして早くできることを可能にした
ケイタイの機能。

人間は一人では生きられない。
暖かい心のぬくもりをどんな人でも
求めているのかも知れない。

「一通でも多く便りを書こう。
返事はなるべく出すことにしよう。」

偉人のことばは、メール時代に
どのように人々の心に響くのだろうか。

随想 伊路波村から120〜50回忌、養父母健在の頃

世の中が凄い速度で変化している。
できごともちょうどピッタリのことが
多くて、時に驚かされる。

その昔興味のあったことがらに
まったく興味がなくなったり、
活動がいやになったり。

かといって静かにしていたいわけでもない。
まったく別のこと。

養子の自分としては、山田家の親戚とは
他人なのだが、すでに老いた人々でも
お会いした時から気になる人もいる。

それは80歳になる養母の弟さんで、現在78歳と聞いた。
山田善兵衛さんの奥さん、すなわち養父の
お母さんの50回忌が11月も終わりの週にあった。

その日善兵衛さんゆかりの老いた人々が
山田家に集った。

気になる母の弟さんは現在奈良在住。
若くして早期退職を希望され、大手のメーカーの
工場長の役を退き、桑名の本家を去り、
奈良に建売住宅を購入し移り住んだのだった。

温厚にして毅然とした態度に、
いずれとも異なる、なんともいえないやさしさを
みていた。

娘たちはこの母の弟さんや奈良の家が大好き。
庭はすべて自然栽培の野菜でいっぱい。

弟さんは遠方からの法事出席だからと、前日から名古屋入り。
クラウンに宿を取り、温泉に一緒に入り、
父母や家内や子供たちと共に夕食をいただいた。

今は四国巡礼の旅が楽しみ。
もう2回目に入ったとか。
途中昔ばなしに胸をつまらせながらお話された。
「おかげであちこち母親が連れて行ってもろて、
喜んどったで・・・。」
山田家に嫁いだ姉によく旅に連れて行ってもらったことを
母親が喜んでいたというのだ。
お姉さんへの感謝でいっぱいだった。
うれし泣きの年齢になられたのだろうか。

後日、母にたずねた。
「たつやさんて、いつもあーやって泣かれるの。?」
「なに、あんなこと始めてやわ、ビックリしたわ・・・。」
いまだに桑名弁の母なのである。

翌日家で法事。
昼食には近くの料理屋さんに出かける。
おいしいお料理を、思い思いの話をしながら
いただいた後、85歳になる父のあいさつがあった。

「あの・・・、今日はよう来ていただいて、
今日の主役はみんなだな、みんなだ。」

短い挨拶の中に、来ていただいた方への感謝の
気持ちが溢れ出ていた。

あと3年後には善兵衛さんの50回忌を
迎える。
それまで元気にいてください。
おじいちゃん、おばあちゃん。

いつもおじいちゃんにこごとの多いおばあちゃんだが、
「あんた・・・、こないだの挨拶よかったな。」
だって。

ありがとう。

随想 伊路波村から~スエさん

「スエさん、死んじゃったよーーー!」といってボロボロ涙を
こぼす父。

「俺がかわりに行けばよかったんだわ。」
しゃくりあげている。

「めずらしいね。」といって家内と顔を見合す。
10月1日、土曜日に帰宅直後の出来事。

スエさんは、町内のステーキハウスの社長さん。
年はたしか75歳にはまだ1-2歳あったと思う。
急な報せにちょっとビックリ。

スエさんの奥さんの方が、病気がちで、
スエさんは看病もっぱらの日々。
とても陽気で、町内でも人気者だったから。

末夫さんが本名だったから、スエという名の店に
したのだろうか。

いつも黒塗りの乗用車がズラッと駐車場にあって、
私たちにはすこし敷居が高い店。

ボーンステーキは一回は食べるといいなあと思う。
12000円するから4人くらいで、すこしずつ。
おいしすぎる特選の松阪牛。

スエさんには特技があった。
裃(かみしも)を着て、ちょんまげを結って、
口上をいいながら、もちつきをするのだ。

その口上がちょっとエッチで、観衆には大うけ。
だから若いころには、全国のホテルや結婚式に呼ばれていった。
ステーキ屋さんよりも多く出向いた年もあったとか。

こちらが40代のはじめ頃までは、なるべく町内のことには
タッチしたくなかったし、時間的にできなかった。
PTAの関係や町内にある山車の縁で、
どうしても町内の行事にタッチせざるを得なくなった。
そして、スエさんを知った。
スエさんはきっと末っ子。
田舎から出てきて、一代で素敵な、有名なステーキ屋さんを
築いた。

ちょうどスエさんを知った年くらいから、
町内の白龍神社さんでスエさんが大晦日の
餅つきイベントをするようになったのだ。
息が詰まるような町内の常会でも、
スエさんのおかしいような一言で、
みんながゆるんだ。

本音の人。
スエさんがいたからこそ、
町内のことにタッチしてもいいなって思ったんだから。

父は84歳。
スエさんのあまりに若い、急な死に、思わず
「ワシが逝けばよかったんだ。」って言葉が
でたんだろう。

昨日2日は告別式。
父と家内と3人で参列。
式場に入るとなんだか、もういけない。

車椅子のおくさんに挨拶する。
なみだがボロボロ出てくる。

蝶ネクタイのスエさんが喜んでいる。
「あんたの嫁はん、うちのと一緒の名前やからな。
なんだか他人には思えんで。」

美佐子さんは、いつものように微笑みを絶やさない。
さすがはスエさんの嫁はんや。

しっかりやるでスエさん!!
ありがとうスエさん!!