墓場まで・・・・

お人に言うことができないことって
どなたの人生でもあります。
それからどんな家庭にもあるのでしょうか。
誰にも言えずに墓場まで持って行きたい。

でもそんなことがあるって言えただけで
大きな曇りは消えて行くようです。

決してひとつにはならない融合

‪絶対的な孤独 つまり相手や皆んながいないことではない孤独 と 絶対的な歓喜 これも相手や皆とは関係のないもの凄い喜び これらを知っているものでも 集い語り合い 食事をし 男女の融合をしたりして 虚しさからか まぎらわす。 だが決して精神の融合は得られない。‬

随想 伊路波村から103〜スエさん

「スエさん、死んじゃったよーーー!」といってボロボロ涙を
こぼす父。

「俺がかわりに行けばよかったんだわ。」
しゃくりあげている。

「めずらしいね。」といって家内と顔を見合す。
10月1日、土曜日に帰宅直後の出来事。

スエさんは、町内のステーキハウスの社長さん。
年はたしか75歳にはまだ1-2歳あったと思う。
急な報せにちょっとビックリ。

スエさんの奥さんの方が、病気がちで、
スエさんは看病もっぱらの日々。
とても陽気で、町内でも人気者だったから。

末夫さんが本名だったから、スエという名の店に
したのだろうか。

いつも黒塗りの乗用車がズラッと駐車場にあって、
私たちにはすこし敷居が高い店。

ボーンステーキは一回は食べるといいなあと思う。
12000円するから4人くらいで、すこしずつ。
おいしすぎる特選の松阪牛。

スエさんには特技があった。
裃(かみしも)を着て、ちょんまげを結って、
口上をいいながら、もちつきをするのだ。

その口上がちょっとエッチで、観衆には大うけ。
だから若いころには、全国のホテルや結婚式に呼ばれていった。
ステーキ屋さんよりも多く出向いた年もあったとか。

こちらが40代のはじめ頃までは、なるべく町内のことには
タッチしたくなかったし、時間的にできなかった。
PTAの関係や町内にある山車の縁で、
どうしても町内の行事にタッチせざるを得なくなった。
そして、スエさんを知った。
スエさんはきっと末っ子。
田舎から出てきて、一代で素敵な、有名なステーキ屋さんを
築いた。

ちょうどスエさんを知った年くらいから、
町内の白龍神社さんでスエさんが大晦日の
餅つきイベントをするようになったのだ。
息が詰まるような町内の常会でも、
スエさんのおかしいような一言で、
みんながゆるんだ。

本音の人。
スエさんがいたからこそ、
町内のことにタッチしてもいいなって思ったんだから。

父は84歳。
スエさんのあまりに若い、急な死に、思わず
「ワシが逝けばよかったんだ。」って言葉が
でたんだろう。

昨日2日は告別式。
父と家内と3人で参列。
式場に入るとなんだか、もういけない。

車椅子のおくさんに挨拶する。
なみだがボロボロ出てくる。

蝶ネクタイのスエさんが喜んでいる。
「あんたの嫁はん、うちのと一緒の名前やからな。
なんだか他人には思えんで。」

美佐子さんは、いつものように微笑みを絶やさない。
さすがはスエさんの嫁はんや。

しっかりやるでスエさん!!
ありがとうスエさん!!

随想 伊路波村から104〜母は神様

母は神様

日曜日。
師崎の朝市の場所で夕暮れ時に
バーベキュー。
火をおこし、食材を整える。、
朝から釣りにでて、成果をいっぱい抱えた
男たちのほこらしそうな顔に
さばかれる大量のサバ。
そのサバに無心にカレー粉と小麦粉を
まぶす若いお母さん。

娘さんたちに、「お母さんって。焼きそば
すごく上手なのよ。!!」って
はやされて、やっぱりやってしまう同じお母さん。
語らずに動く女性は、それだけで神様。
男は飲むだけだ。(笑)

月曜日。
海の日の結婚式。
出会って半年で結婚。
姉さん女房は、伊勢神宮の元宮司さんの娘さん。
会社の元同僚だった彼女のお母さんが
真っ先に式場で近寄ってみえた。
「よかったですね。」
そういうのが精一杯。

世界のあちらこちらを自由に旅する女性。
お父さんのところに、時々届くたよりには。
海外のどこかに住んでいることを告げているだけ。
「96歳になる伊勢のおばあさんの容態が
いつ変わるかもしれないので、先方さんに
ご無理言って結婚式を早めていただきました。」
と、おとうさん。

会社を去る娘さんの荷物を引き取りにみえた日、
こちらの自宅にご挨拶にみえたごようす。

車越しにはるかにすれ違ったお父さんに心で手をあわせました。
ありがとうございます。

結婚式で娘さんを思いながらも、多くを語らぬ父親。
式の最後、ご両親への感謝の言葉は、もっぱらお母さんへ。

「小さいころ、ちっとも言うこと聞かない子で、
遅くなっても帰ってこない私を探しに来てくれて、
遊び場にいることを確かめたら、黙って去って、そっとしておいて
くださったお母さん。あとでそのこと知りました。」

母親は神様です。

随想 伊路波村から105〜人の役に立って旅立つ人

17年前、テナントビルを建てる事を決意した。

都会名古屋のオフィス街。
住む人々は都会を離れ、町内の少子高齢化は
一段と進んでいた。

なるべく長く、親族が争わないように、そして都会の土地が
多くの人々に利用されるようにとの願いを込めた。
そして17年が経過し、その願いどおり多くの方が毎日
ビルに足を踏み入れるようになった。

一階正面から上り階段で入れる2階には、
当初電力系のポケベルの会社が入居した。

そのご縁で会社の新しい事業として、移動体通信を
取り扱うようになっていった。
情報の世界へ足を踏み入れる
きっかけとなったのだ。

全国でも次第に増えていった電力系のポケベルは
NTTのそれより値打ちで人気も増していった。

販売の営業にはさまざまな職種の方が
新しい事業と位置付けて参入してきた。

私たちとともに販売に携わった人に、縁戚にあたるMさんがいた。
彼は自動車の修理工場の経営者。
いつも会社を訪れるときには、その弁舌の爽やかさ、
持って生まれた営業の才覚は修理工場の経営者より
優れていると思えたから、
代理店をお願いすると快く引き受けてくださった。

かれはやはり思ったとうり、新しい事業にとても力を入れた。
そしてポケベル獲得数はこちらよりもはるかに多かった。

だが時折見せる体の不調なようすを隠す事はできなかった。
修理工場を訪ねたある日、私は奥様にそれとなく
たずねてみた。
奥さまはしばらくおしだまったあと、こういった。
「主人はほんとはガンなんです。白血病です。」

なんとなくの予感はあたった。
それでも彼は余命がほとんどないといわれていたにも
かかわらず、新しい仕事にいのちをもやし、
体調が回復し随分元気になられて、5年がたった。

その間に土地をてあてし、マンションも建設する。
自らも住むマンションもでき、嬉しそうにそのことを語ってくれた。
もちろんマンションの建設業者はポケベルの一番の需要家になる。

そんなある日奥さまから入院の知らせ。
白血病の悪化。
お見舞いの日、部屋に入りつとめて明るく話すこちらの目をみる
こともできず、無念さにだろうか、背をむけて恥ずかしがった。

それからおよそ10日後彼は逝った。
思い出多い修理工場で行われた葬儀に参列。
奥様は気丈に話かけられた。

「うちのひと ほんとにい仕事ができてよかった。
ポケべルでみんなによろこんでもらって、
寿命が5年ものびたよっていってました。」

とボロボロ泣きながら。

ビル建設から18年目を迎えた今年、
今はポケベルの会社はなく、その部屋には美容室が入居している。
上弦のおぼろ月がビルを照らしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そしてその15年後の今日 会社の本社となったのです。

随想 伊路波村から106〜娘とのデイト

「しのちゃん行く?」
「明日10時からあるからなあ。
でも 起きれるかなあ。--」

しばらく 長女は考えて、「行こか!」
そんな会話が前夜にあった。

4日 ナゴヤドームの中日ー横浜 野球の話だ。
毎年このお盆の頃になると、立川に住む妹の家族が、
故郷の名古屋近辺の兄弟の家を転々とする。

3日と4日は山田家宿泊。
2人の子供のうち長男は今年はこない。
さすがに今年の春就職したから。
それでも去年までは20歳をすぎても毎年
ついてくる なんとも素直な長男さんであった。

3日夜話しているうち、妹の友人から電話。
それがナゴヤドームのチケット2枚のことだったのだ。

ところが4日は名古屋に始めて開院した
「むつう整体院」金山に出かける日。
そのあと終ってから、ドームにかけつけることにした。
むつう整体で グッスリ眠ってから 5時すぎ地下鉄で
ドームへ向かう。

「ねえ 幼稚園のあの モンキーセンター以来だね。
しのちゃんと2人で ちゃんとデイトするの。
ほら しのちゃん”ほうそう”で、幼稚園の遠足
行けなかったから、おとうさん かわいそうにと
思って 二人だけで行っただろ。?」

「わたし それね 覚えていないの。」

「しのちゃんね 電車のイスにもたれることも
なくて 背筋をしっかり伸ばして 黙って座ってたよ。」

そんな会話をしながら、ドームに着いた。
夕食、飲み物を購入し座ったらすぐにプレーボール。
直ぐ前の席には元気のいい若いママさんと、
1歳すこしの 目がクリッとした可愛い赤ちゃん、
そしてそのおばあちゃんの3人づれ。

若ママはビールが手伝ってか、
しきりにこちらに振り返って話し掛ける。
ナチュラルハイテンション。
子供もこちらにちょっかいかける。
おたがいだったけど。(笑)

そして遅れて着席した右席の父と小学生の
男の子コンビは熱烈ドラゴンズファン。
後ろの席の団体らしき人々も熱烈。
その父親はドラゴンズの選手一人ひとりの
応援歌を全部暗記しているのだから。(笑)

ドラゴンズに点が入ると、周りの席だけ大爆発。!!
みんなが一斉に「この席はええなあ!!」
なんせ生まれてはじめてのネット裏の超高級席だったのだけれどーー。
外野席のような盛り上がりなんです。(笑)

「お父さん いつもみたいに燃えないね」
娘が聞いた。
「なんだかね点の取り方がね。
四球、とスクイズとエラーで3点でしょう。
相手はスカッと二塁打で2点でしょう。
こりゃ負けてもしょうがないよ。」

それでもドラゴンズは1点勝っていて、
9回1死まで見て、ドームを後にした。

次の予定を2人で野球観戦中に作ってしまったから。
今度は名古屋駅前のプライナスライブだ。!
9時30分をすぎている。
駆けつけると、やってるやってる。
妹 母娘も来ている。
100人ほどの人々。

テレビ出演と夏休み効果か 新しいお顔も多い。
「もしかすると トニー?」
外国の方のお顔もみえた。
トニーだった。(写真)

実は ご存知の方もあるでしょうけど、
驚くべきお話がトニーのご縁であったのだ。
この2月、オーストラリア人のトニーは
名古屋に来た時、プライナスのなな下ライブに遭遇する。
すっかりまいったかれは、翌週にも来て、自慢のキーボードで
ゲスト出演。 プライナスの大ファンとなった。

そして再来日して今日水曜日、なな下ライブに来たのだった。
最初の出会いから帰国した彼は、オーストラリアで
一人の日本人女性旅行者と出会う。
仲良くなってドライブ中、かけたCDが「イマジンルール」。
そして帰国したその横浜の女性が、プライナスあてに
メールを送り、CDの要望とオーストラリアでのトニーのことを
伝えてみえた。

それだけでもプライナスは感激したのだったのだが
後日談がつい先日、プライナスの掲示板に載った。

プライナスのボーカル マミちゃんの妹の一乃ちゃんから。
なんと今 カナダのトロントに留学している一乃ちゃんと
その横浜の女性は前からの友達だったのだ。
なんと狭いこの世界。
必然の出会いの妙は イキです。

今日もゲストでトニーは演奏と歌。
「テルミー」
彼のやさしさが伝わってきた。
また来週も来るという。

ファンの一人ヒデオさんが携帯をもって叫んだ。
「ドラゴンズ サヨナラだ!
11回 5対4!」
「イエーーーッ!!!」
こんなところで今日一番燃えたよ。

さまざまな知り合いとお別れ。
妹たちと 徒歩で家路についた。
「イネイト」「ドラゴンズ」「プライナスライブ」
午後これだけを 長女とともに過ごした。

思えば少し気が落ちた時、朝散歩したり、
空いた時間に公園にでかけたり、
家族と一緒に遠出したりはたくさんあった。
でも2人きりのデイトはあの幼稚園の時以来。
なんだかいっぱい2人で遊んだ日だった。

寝床で横たわった長女がぼくを呼びとめた。

「お父さんーー 今日はありがとう。」

ぼくは 小さくうなづいた。

随想 伊路波村から107〜不思議の始まり

幼き頃、母親に手を引かれて私と妹はよく
あちらこちらの宗教団体の支部に顔をだした。
何もわからない私たちは、静かにしていることが
仕事だった。

数々の宗教を遍歴した母はきっと、その信仰を
支えにしたからこそ、生活がやりきれたのだと思う。

「人の役に立つ人間になれ」が母親の口癖。
そしてなにか辛いことにあうと「苦あれば楽あり 楽あれば苦あり」も。
時には霊能者の前で泣き崩れる母の姿を
子供たちは目撃することになる。

母の宗教遍歴は死を迎えるまで続いた。

母の通夜、妹の長男はワイワイと泣き止まない。
「おばあちゃんがいる おばあちゃんがいる」
あまりのことに、妹は長男を連れて家にもどったが、
通夜の場所を離れてしばらくすると、泣き止んだとか。

まだ母親が元気な頃のこと、私は名古屋で仕事をするようになり、
帰名していた。
少し心を病んだ妹が3ヶ月も家出したままで、消息不明と
母から聞いていた。

丁度同じころなぜか右の肺の下が息を深くすると
痛んだ、それはやはり3ヶ月も続いたのだった。

仕事の上のストレスか変な病気かもしれないと不安だった。
完全に唯物主義の自分だったが、もしかして妹の消息が
わかればと、お客様のご紹介で「人捜し不動」と呼ばれた
お不動さんに出向くことにした。
そこは床屋さんだが、おばあさんがその
床屋さんの裏の家でお不動さんの信仰をしてみえて、
相談にみえる人々にピタリとアドバイスをすると聞いていた。

特に行方不明の人間を捜すことが得意で「人捜し不動」とよばれていたのだった。

ある日曜日、そのお不動さんの予約をとり、三重県の菰野町へ
出向くことにした。胸はあいかわらず痛んでいた。

車で東名阪四日市インターを降り菰野方面へ向かう。
そして国道を走り、お不動さんのある部落への道へ右に
曲がる。そのとき突然といってよいほどに、長い間痛んでいた
肺の痛みが消えた。えーーーってビックリふしぎだった。

それでとても嬉しく、心が軽くなってお不動さんに着いた。
順番がきて、おばあさんの前に座る。

名前と生年月日を書き、捜す人の名前と生年月日も書く。
「何を聞きたいですか?」とおばあさん。

「3つ あるんですが。」

「ひとつは胸がずっと痛くて なぜかわからなかったものですから。
そう思っていたら、ここへ着く少し前に痛みがきえてしまいました。」

「それでいいんじゃ。 あんたがここへ来ようと思ったときに
ほとんど治ったんだから。」 とおばあさん。
「?」

「ありがとうございます。それからあとは3ヶ月行方不明の妹ですが
みつかるでしょうか。 それと最近仕事を変えたんですが、
私は口下手で営業の仕事にむいているのかどうかわからないのです。」

「仕事のことは自分で決めなさい。
大丈夫。なんでも出来る!」

「それから妹さんのことだがちょっと待って。」といってなんだか
古い書物を開き、紙にいろいろと書き付けられたあと—。

「あのね 心配せんでいいです。3日以内に連絡させるから。」(?)
こんなやりとりの後辞去した。

半信半疑だったが胸が治ったことは事実だった。

家に戻り母にその旨連絡する。
そして翌日になった。
母から電話。
「あのね今連絡があってね。
居場所がわかったから。
心配せんでいいって言っとったから。」

「エー? ほんとだったんだ! なんてこと!」
このときほど驚いたことはない。

そしてお不動さんのおばあちゃんに早速お礼の電話。
おばあちゃんは ただ「よかったね。」でおしまい。

その後妹はその時一緒にいた男性と結婚した。

不思議なことを信じざるをえないことの
始まりとなった「人捜し不動」。

そのときのおばあさんは亡くなり、後を継いだ息子さんが
あったが うまくいかず今お不動さんはやっていないと聞いた。
それから30年が経っていた。

春、桜吹雪が舞う昨日、その妹からケイタイに電話。
「あのね長男がね、初給料が出たといってね、
10万円しか手取りがないんだけどね、
5万円もくれてね—-。」

「よかったね。嬉しいね。」と私。
歳月は人間にさまざまな体験をもたらす。

ふしぎが、奇跡がこの私たちのまわりの全部を
占めているんだと、このごろようやくわかりかけてきた。

三重菰野町とは今も他のことでとても
深いご縁が続いている。

不思議は止まることをしらない。

随想 伊路波村から108〜川奈ホテル

毎年この時期に開催される、プロゴルフ競技の
フジサンケイクラシック。

今年の優勝者はアメリカのハミルトン選手だった。
テレビ画面の中での優勝インタビュー。
彼は何度も胸を詰まらせていた。
5年ぶりの優勝。

奥さんと娘さんがアメリカへ帰り、
単身赴任のかたちで、日本ツアーに参戦している。

長い間勝利がなかったこと、
そして家族と離れて暮らす孤独感にたえた
歓びと感激だったのだろうか。

選手はこのフジサンケイクラシックの時は
ほとんどが クラブハウスでもある「川奈ホテル」に宿泊する。
「川奈ホテル」はゴルファーなら一度は宿泊して、
ゴルフをしたいと夢見る場所。

このホテルには楽しい思い出がある。
今から15年ほど前のこと。4人のゴルフ仲間がいた。
4人は仲がとてもよくて、月に一度はいっしょにプレーした。
そして年に一度はゴルフ旅行で宿泊2ラウンド。

徹底的に足の引っ張り合い口撃をしてチョコレートを
奪い合う、楽しい仲間たち。

最初に70台を出した人をみんなでクラブ(飲み屋さん)に
連れて行こう。とかシングルになったらお祝いしよう とか
約束していた。

4人がみんな100をきるように丁度同じ時期になった。
いつかは川奈へ。 夢が叶った。

川奈ホテルはさすがにクラシックな建物。
部屋も落ち着きのある白壁の部屋。
そして到着の日、初ラウンド。
さすがに川奈コースは難しい。
ケチョンケチョンのスコアで一日目はみんなに
チョコレートも総とられとなった。

夕食はとてもレストランで食べる余裕がないので
町にでて、地元の海のさちでたくさん飲んだ。
ゴルフの話はキリがなく、楽しい。

ひそかにみんなが良いスコアと勝つことを狙って
川奈ホテルで就寝。

翌日、意気洋々とラウンドにでかける。
川奈の風は聞いていた以上。

逆風のテイーグランドでのナイスドライバーが100メートル。
ハーフを終えて昼食。レストランもクラシック。

給仕のボーイさんが真っ白な正装、蝶ネクタイすがたで、
3人直立して我々の食事を見守る。
客は我々一組だけ。

カレーがたしか2500円くらい、ビールは小びんで1200円だったか。
ドキドキしながらみんながカレーを注文して、楽しみのビールを小びんで飲む。
追加をしようとすると、みんなの冷たい視線。(ワリカンだから)

ボーイさんたちの姿がカレーをのどに通さない。
クスクス笑いながらの食事。 川奈はすごい。

昼からの最後のハーフラウンドも惨めなスコアで終了。
結局は負け頭となってしまった。

伊豆からの帰路、二日間の話題に花が咲く。
ゴルフをし始めて一番楽しいのが100を行ったり来たりする頃。
そのもっとも楽しい時期を、気のおけない仲間と川奈へ
行けた歓び。

そのうちの一人はもうこの世にいない。
若くして病に倒れた。

そして川奈から7年後、一人がシングルになり、
残りの2人はともに70台をだした。

そして自分はゴルフをぴったりとやめた。
もう昔のゴルフ仲間との付き合いはない。
フジサンケイクラシックは四人の仲間の思い出である。