再録 随想 伊路波村から17~意識の波

意識の波はエネルギーだから、
他のものや人に物凄い影響を与える。

怒りまくる人のそばには
誰も寄り付かないし、
そわそわと忙しい人のそばも同様。

悲しみが深かったり、不安が強かったり、
なんでもしっかり完璧にしなくてはと
思ったりすると、これまたエネルギーが強い。

安心のエネルギーはなにかというと、
何にも思っていないことで、目の前に
起きることをそのまま処理することだ。

それもただ感謝でできたら、方向がない。
そんなにできたら99%の人生。
あと1%はあちらへ行ってから。(笑)

南無とはありがとう、こんにちはの「ナマステ」の
ようなことばで、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏さんへの
挨拶と友人の僧が言う。

よくできても99%だけれど、そこまでいたる人はまれ。

だから少しでもできるように、また生き方を
忘れないようにと「南無阿弥陀仏」だよと
親鸞さんは説いた。

その僧侶の友人から届いた、彼の随筆が数枚ある。
今朝、目を通させていただいた。

何故かこの場所で、はるかな居多ケ浜が思われる。

「親鸞聖人の流罪地を訪ねて」

平成18年11月26日(日)夜10時、私と妻は、
自家用ワゴン車で出発した。
聖人の京都から越後(新潟県)への足跡に少しでも触れる思いで、
北陸自動車道を走行した。

途中、車内で寝袋に入って寝、27日(月)午後1時に上越市
(旧、高田市・直江津市)
に入った。

「聖人は、北陸道親不知を歩いて越えられ、糸魚川の東の
小野浦(現、木浦)から乗船し、3月28日に郷津の東の赤岩に着岸し、
居多ケ浜より上陸された。」という。

 上陸地の「居多ケ浜記念堂」、最初の立ち寄り先の「居多神社」、
初めての庵である竹の内草庵があった「国分寺」、次の庵である
竹の前(たけがはな)草庵があった「本願寺派国府別院」、
土地の弟子が開基である「光源寺」を視察し、親不知にて
宿泊し、翌29日は厳冬間近の「親不知、子不知」の海岸を体感し、
聖人の関東への足跡を思い、長野自動車道を走行して、
夜8時に帰名した。

50程のトンネルを抜ける行程であった。
・・・・・・・後略・・・・・・・・
親鸞聖人の流罪から800年、
上越は幾度もの地震にゆれている。

「南無阿弥陀仏」

居多ケ浜を歩む親鸞聖人の後姿が見えてくる。