このように真理について数々の言葉を
拾い始めますと、現象のことがらについて
成功とか失敗とか、効率とか不効率とか
などのことは「どちらでもよいこと」になってしまいます。
人間は自由意思を持っていて何を思ってもよいです。
ですが真の「自由」とは自分自身の本源を知り
それを把握することだとすると、この世の自由と
実相の自由の差がはっきりとしてきます。
「裁かないこと 裁かれるから」
いつも日常にあっては常にだれかを裁く癖が出てきます。
それは簡単には、自分を裁いていることになるので。
裁かれることに必然的になるのでしょう。
どこにも分離がないと知れば、
わたしのものも、あなたのものもなく
所有という概念すら消えていきます。
明日は今日の愛ある行為によってすでに解決済です。
自分という人を伝える他人という存在。
どうして教えられていることを裁くことができるのでしょうか。
相手という自分なのに。