ある道のり1~記憶の始まり~

ある道のりを再録させていただきます。
1-9までです。
その後ご興味がございましたら。
独立して1-38全編を掲載させていただきます。

生まれたことは確かにあります。

今の人生の始まりの記憶があって、
それがこの世に生まれ出た確信です。
そして今がある。

1948年8月9日が誕生日です。
長崎の原爆記念日です。
その長崎に今生で20回を超えて行かされる
ことになるとは、とても不思議と感じています。

昭和23年、戦後3年が過ぎていました。
場所は疎開先の父親の母親が住む、三重県名賀郡青山町羽根
です。近鉄電車が榊原トンネルをいくつも抜けた先に在る
町です。昔は「阿保」という駅名でしたが、今は「青山町」駅です。
駅の名前が少し変だったからでしょうか。

71年後の令和元年夏、この青山町を訪ねる機会がありました。
ヨガの講習で青山フォレストパークに行ったのです。
その朝、生まれた場所の河川敷の農機具小屋を
捜しましたが、もうありません。

場所は以前、といっても小学校3年のときに教えていただいていました。
疎開先で父母や家族が身を寄せる場所がそこしか
無かったのでしょう。
今はないことに、なぜか深い感慨がありました。

家族はまもなく青山町を引き上げて、名古屋の中区に移ったようです。
7つ上の兄、3つ上の姉、そして3つ下の妹の4人が
兄弟姉妹です。

町内のお兄ちゃんたちが遊びで騒いでいるときに、
3歳の子供はまわりをうろうろするばかりでした。
そのころ「ミソ」と呼ばれたのが、まだ正式に
遊びに加われない幼い子供でした。
その姿が記憶の始まりでした。

家に父親がいないことに気づいたのはもっと先です。
母親一人で4人の子供を育てていたようです。
記憶のある三歳からは人生で一度も父親と同じ
屋根の下で眠ったことはないのです。

母は字もきちんと書けないような人だったのですが、
プライドは高そうで幼稚園に入れてくれました。

しかも戦後まもない貧困の日本社会でたった一人で
四人の子供を育てた母なのに。
当然極貧の家庭でしたでしょう。

幼稚園に行きだして三日が経ち、母に言いました。
「いじめっ子がいて、毎日砂掛けるからもう行きたくない。!」
母は即答で「そんならやめたらいい。」・・・。
あっけらかんとしました。
せっかくなのに辛抱しなさい、と言われると
思っていたのに・・・。

母の口癖は「まあちゃんはいい子だ。まあちゃんは優しい。
人の役に立つ人間になりなさい。」その三つです。
ですからその三つのことを実践する人間を目指したようです。

母は泣かず、さらに怒った姿を見たことがありませんでした。
何かつらいときには「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と
一人でつぶやいていました。

大須の映画館に同じ映画を毎日見に行く男。
入り口で切符切りをしていた女。
その二人が結婚し、四人の子供に恵まれそして、
別れました。

離婚はせずに決して戸籍を汚さなかった気丈な母。
一度父が籍を内緒で抜きましたが、すぐに役所に抗議して
元に戻したようです。
父はすでに別の女性と同居をしていました。
裁判協議し父が子供たちの養育費を支払うことで和解します。
そのことでまた多くの体験を得ることになっていきました。

さだまさしさんの「無縁坂」は好んで歌います。

    母がまだ若い頃 僕の手を引いて

    この坂を上るたび いつもため息をついた

    ためいきつけばそれで済む 後ろだけは見ちゃだめと

    笑ってた白い手はとてもやわらかだった

    運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど

    そういうことって 確かにあると あなたを見てて そう思う

    ・・・・・・・・・・・

苦労ばっかりの人生だった母だけれど
あなたがおっしゃったように生きようと
息子は強く思っています。