再録 随想 伊路波村から10~出会いの時間

出会いの時間
人は出会う。
当たり前だけれど。

そして物凄い影響を受ける人もいる。

小学校、中学校時代なんか、
素敵な字を黒板に書く先生の真似をして、
自分の字が変化していく。

そんなことが数回あって、自分の本当の字が
確立していった。

今も変化しているのだろうけれど。

人生に強い影響を与える人さまとの出逢い。
そんな出逢いこそ、今回の人生の醍醐味だろうか。

会っては去り、あっては去りの繰り返しもまた人生。

他人様の集合体がまるで私のよう。

どんな人に出会うのかは、どんな人間に
なるのだろうかと同じように思わせていただく。

なつかしい出逢いに、心ときめき、
そして別れがくる。

今度はいつの「今」に、その方に出会わせていただけるのだろう。

そんなふうに思うと「大切にしよう」と思わざるを得ない。

仕事の話だけれども、いつも迷うのは「顧客優先ばかり
していると会社はどうなるのだろう。」という問題。

このことは人生の生き方にも通ずることだろうけれど。
今朝、そのことに触れている文章にいきあたった。

「愛他論」パウロの行動原理だ。
「私は、誰に対しても自由な者だが、すべての人の
奴隷になった。できるだけ多くの人をえるためである。
ユダヤ人に対しては、ユダヤのようになった。

ユダヤ人をえるためにである。・・・・弱い人に対しては
弱い人のようになった。弱い人をえるためにである。

すべての人に対してすべてのものになった。
何とかして何人かでも救うためである。」

ここでの自由な人とは、自分を捨てて
相手の奴隷になることによって、すべてを
獲得できる人という意味のよう。

「奴隷になれ」なんていやだ、言うべきことは
言うべきだ、と聞こえそうだけれど、
結局すべてを許し、相手の奴隷になることは
深いところの己の真の自由であり、意志である
のかも知れない。

出会う人すべてが私なのだから。