奥の院通信から R4 8/20 「真岡郵便電信局事件」

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これは今から77年前の今日8月20日、大東亜戦争終了後の樺太で、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。真岡は樺太西海岸の中心都市で総人口はおよそ2万9千人ほどであった。

 1905年日露戦争終結で締結されたポーツマス条約に基づき、日本領となっていたが、この大東亜戦争末期の8月9日にソ連が一方的に不可侵条約を破棄して侵略してきた。その後はソ連軍と日本軍の戦闘が行われていたが、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まった。

 8月10日には、樺太庁・鉄道局・船舶運営会・陸海軍等の関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の緊急優先輸送計画が決定された。

 8月14日に日本はポツダム宣言の受諾を決め、8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇が玉音放送で国民にも告知された。ここで連合国軍は全て戦闘を停止したのであったが、連合国の一国であるソ連だけは、樺太での侵攻を止めず、激しい日本人虐殺を続行した。ポツダム宣言受諾後の、このソ連軍の戦闘は完全にソ連の侵略行為であった。

 真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務を続行していた。8月20日、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決し、9名が死亡した。自決した電話交換手以外にも残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員にも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出て、真岡局のこの日の殉職者は19人となった。

 8月12日、札幌に樺太から帰還する邦人受け入れのため、樺太庁北海道事務所が設置され、翌13日、大泊港から第一船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は、15日真岡港から海防艦、貨物船「能登呂丸」、漁船等で緊急脱出、出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。

 そして8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して、引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のためには、真岡中学の1~2年生50人を、急ぎ養成することでその後の手筈が決められた。

 一方この日、真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえから残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて、職場を離れる交換手が出ている現状を説明し、仮にソ連軍が上陸して来ても、電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を伝達した。

 この鈴木嬢の言葉に対しては、誰もが手を挙げ、声を出して残る意思をはっきりと表明した。これに対し鈴木は、取り敢えず本日は希望者を募らないとし、兎に角一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示し、後日希望を聞くと告げた。

 翌8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう悲惨な事態を予測するとともに、引き上げ説得にかかったが、応じてもらえなかった。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長と相談し、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を、真岡に回航させて、西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で実現せず悲劇を招いた。

 先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後も、みな「(通信という)大事な仕事なので、もう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」と戒められた。そしてその後公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へ勤めるのよ」と残留する交換手たちから、かわるがわる励ましの言葉をかけられた。

 ソ連は8月9日にこの戦争に参戦し、連合国の一員になって、ポツダム宣言を日本に突きつけて、日本がこれを受諾したにも拘わらず、戦闘行為を止めず、この悲劇が起きた。この悲劇はもちろん他の多くの悲劇の中のほんの一つに過ぎない。真岡の電話交換手が、職務の重大性を自覚し、若い身空で、その職務に殉じた事件であった。ソ連の不法と日本人全員ののまじめさに感じ入る。