致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 21 「受けた試練は宝玉のようなもの」 

三浦 綾子 作家

 十三世紀のころ。シチリアにフリードリッヒ二世という王がいたそうです。この王は人間はすべて自分の本来の言葉を持って生まれてくる筈と固く信じ、その考えを実現しようとして生まれたばかりの、みどり児を集め。養育係にひとことも話しかけてはならないと厳命した。
 言葉をかけられたことのない赤ん坊たちは、自ら言葉を発することは、むろんできなかったばかりでなく、やがて衰弱していき、ついにはみんな死んでしまったそうです。

 言葉をかけるかかけないかということは、実に生死にかかわる重大なことなのですね。十三年間の療養時代、私は愛の言葉のある環境にありましたが、そうではない方たちもたくさんいらっしゃいました。あの時代は日本中が貧しかったですからね。当時の妻たちは食べる物も食べず、身を粉にして働いて、その結果、結核になった。結核患者とすれ違うときは口を押えて、駆け過ぎる人もいた時代です。
 それでも妻たちの入院の当初は、夫たちは見舞いに来た。しかし、病気が長びくと次第に見舞いの足も間遠になり、一年もすると、当然のように離婚用紙を持ってやってきました。妻たちは「仕方がないわ。何の役にも立たない嫁なんだもの」と自らを卑下していました。しかし、消灯後彼女たちは、蒲団をかぶって忍び泣きをしていたものです。
 役に立たない体になった時こそ、手を差し伸べるのが夫婦ではないのか、と私は幾度も思いましたが、現実はそうではありません。
 ハンセン病の人の歌を見ると、悲しい歌が多いですね。「何十年ついに一度も妻は見舞いに来ない」とか、「ふるさとの妻は三人の子の母となるという、いかなる人と暮らしているのだろう」とか・・・。

 いかに一生愛し続けようと思っても私たちは変わりやすい。ハンセン病でなくても、リウマチの妻を捨て、精神病の夫を捨てるというように、この世で最も慰め力づけてやらねばならない伴侶が、一番慰めを必要とするときに離れ去ってしまう。

 私は長い病気の間、この世に病気がなければよいと思った。自分の人生にこんな病み続ける日が来ようとは、と嘆いたこともあった。でも、いまは、その受けた試練は、宝玉のようなものだと感じています。もしもいままで、ただの一度も試練に遭わず、病むことも知らず、想いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったと思います。
 泣く者とともに泣くことはもちろんのこと、喜ぶ者とともに喜ぶ優しさももち得なかったに違いありません。神は無駄なことはなさらないお方だと思いますね。神の与えたまう試練には、それなりの深い意味があるのだと、いまは思っています。