22・目覚めているのと、夢見ていることに
違いはないのでしょうか?
眼が覚めている状態は長く、夢は短い。
この他には何の違いもない。
眼覚めている間に起るできごとが真実と
思われるように、夢の中のできごとも
夢の中では真実のように思われる。
夢の中では、心は自分のものではない
身体に宿っているかのごとく装っている。
眼が覚めている状態と夢の両方の状態に
あって、想い、名前、形が同時に現れてくる。
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22・目覚めているのと、夢見ていることに
違いはないのでしょうか?
眼が覚めている状態は長く、夢は短い。
この他には何の違いもない。
眼覚めている間に起るできごとが真実と
思われるように、夢の中のできごとも
夢の中では真実のように思われる。
夢の中では、心は自分のものではない
身体に宿っているかのごとく装っている。
眼が覚めている状態と夢の両方の状態に
あって、想い、名前、形が同時に現れてくる。
23・解脱を願う者にとって、本を読むことは
どんな価値があるのでしょうか?
すべての聖典は、解脱を得るためには
心を静かに保たねばならないと説いている。
だから、全ての聖典の結論は、心を静かに
保つべしということである。
ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく
本を読む必要は何もない。
心を静めるために、人はただ自分自身の内に
自己とは何かと問いつづけるべきである。
聖典を読むことによっては、この探求はできない。
人は自分自身の智慧の眼で、自身の自己を
知らねばならない。
自己は五つの覆いの内側にあるが、書物はその外にある。
自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって
探求されるべきものだから、それを書物の
中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。
やがて、彼が勉強したすべてのことを忘れ
去らなくてはならないときが来るだろう。
※五つの覆い
五つの感覚機能、視覚、臭覚、聴覚、
味覚、触覚のこと。
24・幸福とはなんでしょうか?
幸福は、自己の本性そのものである。
幸福と自己は別のものではない。
世界のいかなる対象物の中にも幸福はない。
私たちは無知のゆえに、対象物から幸福を
得るものと思っている。
“ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 24 幸福とはなんでしょうか?” の続きを読む
25・洞察力(ジュンャーナ・ドゥリシュティ)とは
なんでしょうか?
静寂にあることが、洞察力と呼ばれている
ものである。
静寂にあるということは、心が自己に
溶けていることである。
過去のできごとを知ったり、現在や未来の
できごとを知るテレパシーや千里眼のような
ものは、洞察力(ジュンャーナ・ドゥリシュティ)ではない。
26・無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。無欲とは、心がどのような
対象物に向かうことも差しひかえることである。
智慧とは対象物が現れないことを意味している。
別の言い方をすれば、自己以外の何ものも
求めぬことが無執着、あるいは無欲であり、
自己をけっして離れないことが智慧である。
27・自己探求と瞑想の違いはなんでしょうか?
自己探求とは、自己の内に心を
とどめておくことである。
瞑想とは、自分の自我をブラフマン、つまり、
存在・意識・至福であると思いなすことである。
28・解脱とはなんでしょうか?
束縛されている自我の本性に尋ね入り、
その真実の本性を悟ることが解脱である。
ある帰依者がシュリー・ヴァカヴァーンに尋ねた
「各想念ごとに主体と対象が現れては消え去ります。
主体が消え去った時「私」も消え去るのでしょうか?
もしそうなら、どのように「私」の探究を進めれば
よいのでしょうか?」
“ラマナ・マハルシとの対話(TALKS)より 29 ある帰依者が・・” の続きを読む