随想 伊路波村から6~ほんとうは無料

水 空気 エネルギー

生かされることに 基本的に必要なものは
みな ほんとは無料。

キレイな水 きれいな空気 を得ようとすると有料。

エネルギーたるや インフラをがっちり握った人々が
50年を超えて 供給してきた。

そして今 情報の世界では そのインフラを握った人々の
線や無線の供給で 通信費は莫大な額となった。

しかしこの通信費なるものも テレパシー能力が
人間に開花すれば 無料となる。(笑)

そして人間の目指す方向がかわれば なおそのことは加速する。
太陽や 空気や海や 供給してくださる自然から
エネルギーをいただければ これは無料。

もともと支配が生み出した現実は
消えてゆく姿だろうか。

土地持ちの家庭に生まれた人は
生まれたてから 生きる条件が整っている。

何も持たない家に生まれた人は
土地や家をもつことだけに人生の大半をかける。

持たなくても 維持することだけにと言ってもいいかもしれない。
働き続ける宿命を背負う。

そしてなるべく他人との関わりの少ない人生を選択する。
消耗を防ぐため。?

人間は一人では生きられない。
寄り添って 群れあって生きる動物だ。
そして人との接触によって 変化を生み出し
創造と実践の喜びを知る。

変化と感動は 生きる糧。

慈悲喜捨は生きるエネルギー。

そして 感謝はすべて。

危機の時にわかる今の自分のこと

今世界中が揺れて、それが未体験のウイルスによるものと
されています。

家庭においても、家族が様々な考え方の
集合である限り、もっとも安全な道を語る家族の
意見が尊重されています。

幼児などの未来。
生命を失うことの不安感。
お人にうつしてしまうことへの心遣い。
もしかかってしまったら社会から疎外される恐怖感。
さまざまな要因が人の心を小さくし、
笑顔の少ない社会を映し出します。

外出から戻ったら必ず消毒をし、ドアのノブをふく。
家庭内の食事の時刻も、ずらしながら一人ずつがする。
そんな情景さえあることを知ります。

マスクをすると目だけが見えます。
マスクの中で笑うと、目が笑います。
でも遠くから人々を見る景色は、
猿の惑星のよう。

人々と異なる行動には、奇異な目が注がれ、
街行く人も、他の方(マスクなし人間)が近づくと逃げて避けるがごとしです。
集合し笑いながら宴会をしていますと、お店の方が
外の人の様子を気にされます。

分離、孤独、不安、恐怖が目的かのような
おおきな作為を感じずにはいられません。

しかも初めからのニュースのバリエーションの豊かさ。
「?」と感じた多くの方を知ります。
でも口に出して言いますと、戦時中の非国民扱い。
そして変人扱いです。

戦後75年間にわたるものすごい洗脳政策でまるで完全に
洗脳されてしまったかのように感じさせます。

危機の時に自分の心の位置を知ります。
人はともあれ自分はどうなんだろう。
心に崩れないものを打ち立てたはずの自分は、
自分が生かされているあかしを保てているのだろうか。

友人、仲間、家族、社員さん、地域の方たち、長くご縁をいただいている
さまざまな職業の方たちとのさまざまな関係の中で、すべては自分と知るのです。

コロナウイルスさえ愛せるものとなれるのか。

危機こそ進化の時と偉人は語りました。

今 その時でしょうか。

随想 伊路波村から7~いただきます

「いただきます」
86歳になる父が 食事が終了してから
そう言った。

思わず 吹きそうになる。(笑)

毎食後に飲ませていただく
自分用のお薬を 曜日別 食事後別のケースから
取り出して 目の前に並べてから 思わず
口に出てきた言葉が「いただきます」。

老夫婦が その日に行った 税の確定申告で
あわせて申請した 一年間に要した医療費は
45万円を少し切った額。
自己負担30%として 医療費全額は150万円
になる。

一人にすると75万円。
これだけの医療費が 必要になる老人という世代。

この国の 皆さんに助けられて生かされていると
思うと 戻るはずがないと言われる 厚生年金も
ぐるりと廻っている感じで 助け合いと思わせていただく。

いい老人とは 「いつもニコニコしている老人」とか。

うちの老人は まるで 宇宙人だ。(笑)

随想 伊路波村から9~みんな自分

あなたが私だということにきづくのに
どんなに長い年月が必要とされたことでしょう。

そしてわかったと思ったはずなのに まさか
そんなはずはないと やっぱり思ってしまう自分に
幾度も会うのです。

そして今度のいのちが 役目を終えるときには
もうほんとにわかりましたと 全ての方が心底感じて
さようならをするのでしょうか。

今年のたくさんの いのちの終わりのお知らせが
届くたび 明日はわが身と思うこともあるのだけれど
まだ 終わる 終えるわけにはいかない 個性の
意地のような かわいさも感じるのです。

人の罪も もちろん我が罪も すべて私の責任のもとに
現われた現象と いのちの底から思えたとき
もうそこに 光の世界が待っているのでしょうか。

今生でお会いできた全ての人々に感謝して
勢ぞろいのときを迎えた感がします。

子の年の紀元節の日 大きな虹が
とぎれとぎれに見えて あまりの幸せに
そして感謝に 今回の意味を知りました。

今日もありがとう。

あなた様という 自分に会えました。

随想 伊路波村から8~天地人一体の今

ほんのわずかな時間で
人と人はであう。

予想もしない出逢いが
その夜の楽しい時間を生むことがある。

そしてそれがもし用意されていたことだとしたら、
この世に生まれさせていただいた不思議と
ありがたさをあらためて感じさせていただく
こともあるだろう。
そんな夜がある。

この世的ではない方との出逢いは
また楽しいものだ。

何をいっても面白いのだから。
閉塞的な今の国の状況の中で
勝ち負けを競いあう集団や、
逆風を事業縮小やコストカットでしのぎ将来に
かってのような夢をもてずに、
さりとてやめる勇気ももてない経営者や、
撤退をうまくしたいと願う老いた
事業家の群れなどを目や耳にする。

続けるということの偉大さを思う。

生きている人々との縁が集団を形成し、
関わる人々の相互の幸せを願い、
日々仕事に精を出す。

だが活躍の場は少なくなり
必要のない人々は仕事を奪われ
不安定な職場を転々とする。

かってのようにただしゃにむに
生活の質の向上を目指した時代が、
幼稚ではあってもなつかしくさえ感じる。

すこしの向上で喜び、わずかな贅沢に
幸福感を覚えた日々もあった。

だが突然にそのむなしさに襲われ、
真理を求めてさすらう幾年間で
着実に大きな波は近づいてきている気が
するのだ。

クライシス。

般若心経や祈りの言葉を
口にしながら、ポロポロと涙を
こぼす娘の純真さに、何と言葉をかけたらいいのだろうか。

死をもって今を精算する人のなんと多いことか。

真理はどこにあるのだろう。

他人の役にたつことが人として
最大の喜びかも知れないが、
この世的な役の立ち方では
真の輝きは得られない。

ひとつとして「感謝」以外のものは
存在しないと教えて下さったのに。

あなた(わたし)は無限。

随想 伊路波村から10~出会いの時間

出会いの時間
人は出会う。
当たり前だけれど。

そして物凄い影響を受ける人もいる。

小学校、中学校時代なんか、
素敵な字を黒板に書く先生の真似をして、
自分の字が変化していく。

そんなことが数回あって、自分の本当の字が
確立していった。

今も変化しているのだろうけれど。

人生に強い影響を与える人さまとの出逢い。
そんな出逢いこそ、今回の人生の醍醐味だろうか。

会っては去り、あっては去りの繰り返しもまた人生。

他人様の集合体がまるで私のよう。

どんな人に出会うのかは、どんな人間に
なるのだろうかと同じように思わせていただく。

なつかしい出逢いに、心ときめき、
そして別れがくる。

今度はいつの「今」に、その方に出会わせていただけるのだろう。

そんなふうに思うと「大切にしよう」と思わざるを得ない。

仕事の話だけれども、いつも迷うのは「顧客優先ばかり
していると会社はどうなるのだろう。」という問題。

このことは人生の生き方にも通ずることだろうけれど。
今朝、そのことに触れている文章にいきあたった。

「愛他論」パウロの行動原理だ。
「私は、誰に対しても自由な者だが、すべての人の
奴隷になった。できるだけ多くの人をえるためである。
ユダヤ人に対しては、ユダヤのようになった。

ユダヤ人をえるためにである。・・・・弱い人に対しては
弱い人のようになった。弱い人をえるためにである。

すべての人に対してすべてのものになった。
何とかして何人かでも救うためである。」

ここでの自由な人とは、自分を捨てて
相手の奴隷になることによって、すべてを
獲得できる人という意味のよう。

「奴隷になれ」なんていやだ、言うべきことは
言うべきだ、と聞こえそうだけれど、
結局すべてを許し、相手の奴隷になることは
深いところの己の真の自由であり、意志である
のかも知れない。

出会う人すべてが私なのだから。

随想 伊路波村から11~代表選手

誰でもが三千世界の代表選手なんですから、
なるべくいのちが沸き立つような毎日が
望ましいですね。

からだもこころもいのちも、みんなみんな
よろこんでいる状態の継続。

生まれさせていただいたほんとうの理由から、
遠くにいればいるだけ、
世の中でいう苦難困難が激しいと聞きました。

不安は怒りのもとですか。?

怒りがだめと感じたら、
不安を消しましょう。

不安は執着だから、
執着を消すということでしょうか。

だけれども手ごわい執着は
現実世界ではいっぱいあって、
てぐすね引いて待ってます。(笑)

どこから消せますか。?

名誉、財、嫉妬、本能・・・・?

自らに語りかける月曜日。

随想 伊路波村から12~戦争

きっと戦争なんて永久になくならない。

そんなふうに思いはするけれど、
戦争の体験に接する時、
人間のあまりにも深い業に
人類の悲しさを見てしまう。

映画「夕凪の街 桜の国」を観た。

ひとつの映画の中にふたつの時代がある、
戦中世代と戦後世代。

親父が戦争を語ることはない。
どこの親でもそうであるように、
何故か戦争を語らない。

まるで人間をあきらめているかのよう。
変な言い方だけれど。

最終のできごと、広島と長崎での。
そのことはこの8月、毎年人々の
記憶を呼び覚ます。

落としたアメリカは日本での原爆の
犠牲者の倍の人々が放射能の犠牲に
なったと聞く。

被害、加害の不思議。

長い間広島に行く機会がなくて、
初めて原爆記念館を訪ねたのは
8年ほど前になるだろうか。

不思議に静かな広島の街。
街を流れる川。

とても長い時間を館内ですごすことは
できなかったのを覚えている。

その後、広島の人たちと縁が繋がった。
物凄い情景、物凄い体験は
人間をそれだけ強くするものなのだろうか。

広島の人たちに、大きな愛と、寛容を見る。
そして同時に強さを。

子供達にも見てもらいたい「夕凪の街 桜の国」。
桜の国。
散っては、根の養分となって重ねていく歴史。

いさぎよい桜。
武士。
特攻。

まだ続くのか、人類の業。

まだ続けるのか支配、被支配。

真実を知るときがきているのだろうか。