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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年11月07日の記事を紹介します。
「幼き天使」
素直で謙虚な心で周りを見渡してみれば、神々はどこにでもいらっしゃいます。
・人の心の中
・目立たなくても精一杯、今を喜び花を咲かせる植物たち
・人間を信じ切った瞳で見つめてくれる動物たち
・さえずる小鳥たち
・元気を出してというかのように周りを飛んでくれる蝶々、トンボ
・いろんな表情を見せてくれる大空の雲
今日の神の山 天空農園
本年も、ご寄付いただいた皆様に感謝申し上げます。
決して目立ったり、自分を誇ったりしているわけではありません。
でも、彼らの中には確実に神々がいらっしゃり 、私たちも同じように、身近な誰かの小さな心の灯になれたら幸せですね。
さて以前、白血病について、記事を書いたことがあるのですが、今日は加筆してご紹介します。
世界の中心で愛を叫ぶ
植木亜紀子という11歳で亡くなった小さな女の子が居ました。
1971年11月17日生。
1975年7月急性白血病と診断され入院。
1983年1月九回目の入院。
1983年3月12日死去
今日は、亜紀子ちゃんが残した9冊の日記を出版したお父様(植木誠さん)のお話をご紹介します。
<引用開始>
22年前、11歳だった娘の亜紀子は「ママ、ごめんね……」という言葉と9冊の日記帳を残し、この世を去りました。3歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、22年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、私の赴任先も例外ではありませんでした。
昼間、学校で生徒指導に奔走し、ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、強い薬の副作用で嘔吐を繰り返す。
あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と入院先での容態を聞かされる。
「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」と心の中で叫んでいました。
そしてある日、妻にこう言ったのです。
「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」
もっともらしく聞こえるでしょう。しかし本心は「逃げ」でした。
彼女を失い、初めて治療に関して「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。
なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。俺は罪人だ……。
もういまさら遅いけれども、彼女の8年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した9冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。
「十二月二日(木)
今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。今までやったことのない検査もいろいろありました。 でも、つらかったけど全部そのことを 乗りこえてやってきたこと、
やってこれたことに感謝いたします。
これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。きっと本当にそうだなと思います。もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」
「二月十日(木)
早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」
点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。それでも一所懸命書いたこの一文に11年間の彼女の人生が象徴されているようで、私にはとても印象に残りました。
あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、
その日は検査や治療で忙しかったらしく、夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。
「きょうは忙しくてできなかった」と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、娘はそれを見て、「ママやってあげて。私のことはいいから」と言ったのです。
命が尽きるその時まで、自分のことだけを考えている子ではありませんでした。
すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。
普通に学校にも通いたかったでしょう。こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない運命を恨みたくもなったでしょう。
しかし日記には
・同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、
・苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、
・明日への希望の言葉、
そんな強く美しい言葉ばかりが記されているのです。
広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、この日記から得る感動は
親の贔屓目ではなく、誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。
私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。そうして教職を辞して出版社を設立、娘が残した日記をまとめ出版したのです。
各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、映画化もされました。たくさんの激励のお手紙をいただき、それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を出版し続けることができました。もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。
人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。しかしこの22年間、私は娘の日記によって生かされてきました。
読者の方や講演先とのご縁をいただき、
さらに
・感動した
・これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください
という励ましの言葉をいただける。それがいまの私の支えです。
娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、他の人を思いやって生き抜きました。
本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。
そんな女の子がいたことを、出版や講演を通して世に伝えることで、あたかも人間の命が弄ばれているかのような現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。
先日、私の講演もついに100回目を迎えましたが、その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。
遥か後輩にあたる子どもたちが、「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、どんなことがあっても続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。
<引用終了>
子供達が難病や、がんと闘っている姿は時に、大人が恥ずかしくなるほど立派であることがあります。 思いやり豊かに、忍耐や希望を抱き、まだ人生経験が浅いのに、肉体的な苦痛を強いられる。
あっ子ちゃんは、3歳の時に急性白血病を患い、11歳で『ごめんね。』という最期の言葉を遺して天国に昇っていきました。
マルクという骨髄検査は、大人でも悲鳴を上げるほどの痛さだと言います。また、ルンバールという脊髄注射も何度も射されるそうです。抗がん剤点滴の注射は、回を重ねるごとに血管が細くなり、一度ではなかなか針がささらなくなってくることもあります。
その度に身体がよじれるくらい痛いそうです。
それでも、あっ子ちゃんは、祈りながら痛みに耐えました。
腕で入らなければ手や足の甲。これは腕の痛みの非ではないそうです。 それを彼女は、9回の入院で幾度となく経験させられました。あっ子ちゃんは、まるで幼い子を勇気付け、優しい心で周りの者と接していくことが自分の使命であるかのように生きました。
その日々の様を反省をしながら日記に綴っています。
人に強いられたのでもなく、背伸びをしているでもなく、自分の病気を通し、自分より幼い子ども達を励ましていました。
時には、親がたまたま傍にいなかった赤ちゃんが急に泣き出した場面では、自分も抗がん剤点滴で苦しいにも関わらず、その赤ちゃんをあやしに行きました。
あやされた病気の赤ちゃんは、ピタリと泣き止んだそうです。看護師やお医者様や友達、担任の教師たちにも、もしかしたら、あっ子ちゃんは大きな気付きを与えたのかもしれません。
彼女の人生は周りからは苦しいだけの人生のように見られるかもしれませんが、決してそうではありませんでした。
・たまらなく楽しい・・
・もう笑いがとまらないという感じ・・
・私は幸せだと思います
随所にそんな人生の輝きをみることが出来ます。
本の表紙の裏には、こんな言葉が綴られてあるそうです。
<引用開始>
3歳で急性白血病とわかり、苦しい病とのたたかいの中でも、笑顔を忘れず、
・同じ病気のチイちゃんを励まし、
・一郎君を元気づけ、
・多くの人に喜びの種をまき、
短い一生を美しく閉じた、あっ子ちゃんの日記。
そこには、多くの人の心に、愛のメッセージを語り続け、励ましを与えている。
・友情とはどんなことか、
・思いやるとはどうすればよいか、
・生きるとは何とすばらしいことかを、
読む人に、深く感じさせないではおれない。
<引用終了>
さて、あっ子ちゃんは白血病で幼くして亡くなるという道を選びました。
この少女の生き方を見て私達は何を感じるでしょうか?
彼女は何の為に、この厳しい道を選んで生まれて来たのでしょうか?
そして、お父さんは、何を伝えたかったのでしょうか?
お一人、お一人胸に響くものは異なることでしょう。
もしかしたら、、、、かわいそうだったね。頑張ったね。と涙し、そして顔を起こした途端、
いつもの
・不平不満、
・愚痴
が頭をもたげて来るかもしれません。
彼女は11歳と言う幼い少女でしたが、あっ子ちゃんの魂は、高貴な天使だったかもしれないですね。
どうして神様が、このような幼い天使達を使わして下さるのか?
あっ子ちゃんの人生に少し思いをはせ、自分の心を見つめ直して見たいと思います。
もしかしたら、神様は私たちに心を振り返って欲しくて彼女をこの地上に遣わしてくれたのかもしれないですね。