[日本の外交官たち」 奥の院通信からR3 10/26

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日本の外交官堀口九萬一氏は立派だったと言う話を以前書いた(8月30日通信参照)。
 今から100年以上前の大正2年(1913年)の話である。この時、堀口は臨時代理公使としてメキシコに赴任していた。そしてこの時、この赴任先のメキシコで起こった軍事クーデターに遭遇する。

 明治44年(1911年)大統領に就任したフランシスコ・マデロ大統領が、この年2月に暗殺されたのである。その後のある日、暗殺されたマデロ大統領の未亡人と父母や子供たちが、日本公使館に庇護を求めて逃げ込んできた。テロリストは彼らを追って日本公使館に乱入しようとした。

 そこで堀口は大使館の入り口に、大きな日本国旗・日章旗を敷いた。そして彼は追いかけてきたテロリストたちに向かって、「入るならその日章旗を踏んで入れ、しかし、そうすると日本との戦争になるぞ、その覚悟があるなら入ってこい」と凄んだ。そこでテロリストはすごすごと帰っていった。

 時代は下って、昭和49年(1974年)1月、武装した日本赤軍2人とパレスティナ解放機構のメンバーがシンガポールの石油施設を襲撃し、その施設の社員5人を人質に立て籠もった。シンガポール当局と日本の魚本藤吉郎シンガポール特命全権大使が、犯人説得に当たった。犯人側はシンガポール航空による脱出と人質の身代わりに、魚本大使の身柄を要求した。ところが魚本大使は、これを拒否した。

 翌月2月、日本赤軍とパレスティナ解放機構は、場所をクウェートに移して、在クウェート日本大使館を襲撃した。その時の日本大使石川良孝氏は女子職員の更衣室に隠れた。しかし、結局見つけられ、彼は本省に「助けて下さい」と涙を流して哀願した。

 また、最近では、アフガニスタンからアメリカ軍が引き上げたが、直ぐに日本大使館は臨時閉鎖となった。タリバンの軍事クーデターで治安が極端に悪化し、危険と言うことで、岡田隆大使は大使館を早々に臨時閉鎖とし、トルコの日本大使館内にアフガニスタン臨時大使館を設置し、業務の場所を移動させた。アフガニスタンの邦人に対する行政サービスを放棄したのである。

 しかし、今回は岸防衛大臣の決断で、日本も自衛隊機を出して邦人救助に向かった。ところが、救出を待っていた邦人は一人だけだったという。アフガニスタンの日本大使館は閉鎖され、アフガニスタン在住の邦人は何も知らされず、何も分からず、カブールの空港に行ってなかったのである。

 これらの事件は、時代とその時々の日本の国のあり方が違うので単純比較はできない。しかし、それぞれの大使の胆力と、その後の日本国の政府と軍とメディアのあり方が、大きく影響することだけは確かである。現場の大使個人に責任を被せるのは、余りにも気の毒かも知れない。

 その後1985年には、イラン・イラク戦争の最中、イラクがイラン上空封鎖宣言を出し、各国の空軍がその国のイラン在住の人たちを救出したが、日本は邦人救出機を出せなかった。その時、期限間際にトルコ空軍が突然現れて日本人が救出された。これはテヘラン空港事件の100年以上前の、明治23年(1890年)9月に起きたトルコ軍艦遭難事件で、和歌山県串本村の漁民を始めとした村を挙げての救出作業に対する感謝の表現であった。

 トルコでは明治23年の事件を語り継いでいるからこそ、トルコ空軍による日本人救出作戦となった。ところが、この恩恵を受けた日本は、明治23年のエルトゥールル号事件のことなどほとんどの人が知らず、従って、メディアも何故だろうと不審に思ったほどである。

 そして、今も終わらない北朝鮮による日本人拉致事件である。これは日本の左翼の政治家と日本のオールメディアの責任である。警察当局は事件当時には、事件内容はかなり正確に掴んでいた。しかし、これを事件として捜査させなかった。この事件は日本政府は日本の国民を守らないということを確定させた。

 北朝鮮のような反日国家は日本人にはどのようなことでもして構わない、日本政府がそこに出てくることはないと踏んでいる。従って、同様な悲劇はこれからも続くことになる。日本国民の真の敵は、日本の左翼政治家とメディアであることは明確である。衆議院選挙が始まっているが、今回は高市早苗候補が「国民の生命財産を守る」と言う政権公約を掲げているから期待したい。