「私は誰か」 友からの小冊子が届いて・・ R3 10/5

金沢の友人Yさんから先日の座布と
ご本に続いて、また短いお言葉とともに
「ラマナ・マハリシの教え」という小冊子が
届きました。

Yさんは8月6日生まれこちらは
8月9日生まれで、広島と長崎の
原爆コンビです。(笑)

「ちょっと古い冊子なんですが
読んでください」 これだけです。

昨日の夕暮れ時、当日買い求めた
芋焼酎のお湯割りを手元に早速
読み始め。

読み進むうちずっと魂が無限宇宙からの声に
震えていました。
こんなに短い言葉群に滂沱の涙が溢れだしました。

「私は誰か who am I ?」

ラマナ・マハリシの教え という小冊子です。

人生を語れば小学生の高学年から
中学生頃まで鏡をみると、この言葉
「私とは誰か」を頻繁に自分に問いかけていました。
あまり考えていると飛んで行ってしまうかのようで
恐ろしくなることもあり、そんな時は
首を振って戻ってきました。
そのようなことを思い出しながら、あふれる涙を
こらえようともせず読み進みます。

途中家内が様子が変なのか見に来たりして。(笑)

28の「私は誰か」という問いについての
ラマナ・マハリシの言葉は無限宇宙へと
広がるものです。

「私は誰か」  はじめのことば

すべての生きものは、いつでも幸福であることを願い、
悲惨ではないことを願っている。私たちひとり
ひとりについて考えてみても、そこには自己への
至上の愛があることが認められる。その愛の源は
ただ一つ幸福である。
人間の自然性である幸福、意識のない深い眠りの中で
体験される幸福を手に入れるためには、人は自己を
知らねばならない。

・・・・・・・・

けれども人々は、この単純な裸の真理、
彼らの日々の真理、
つねにそこにあり永遠の経験であるものを理解しない。
この真理とは、自己の真理のことである。
自己を知らない人がどこにいよう。
それなのに人々は、この真理を耳にすることさえ好まない。
彼らは、彼方にあるものや天国、地獄や再生については
熱心に知りたがる。
彼らは不思議を愛しており、真理を愛してはいないので、
宗教は、結局は彼らを自己の周辺に
連れてゆく程度のものしか提供することができない。
どのような方法を採るにせよ、
あなたは結局は自己に帰ってゆかねばならない。
そうであるなら、
なぜここで今、自己の内に住まないのか。

・・・本文より

それとこれも驚いたのですが、この小冊子の
翻訳者が山尾三省さんだったことです。

山尾さんとは確か20数年前に名古屋の北に
位置する結婚式場やカフェレストランを営む
友人を訪問した際に初のおめもじ。

詩人山尾三省さんの語りの集いが開かれていました。
山尾さんは屋久島在住ですが定期的に
御縁あるこの地においでになり、詩の朗読の
集いを開かれていました。

山尾さんの一つの詩です。

「火を焚きなさい」

山に夕闇がせまる
子供達よ
ほら もう夜が背中まできている
火を焚きなさい
お前達の心残りの遊びをやめて
大昔の心にかえり
火を焚きなさい
風呂場には 充分な薪が用意してある
よく乾いたもの 少しは湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に火を焚きなさい

少しくらい煙たくたって仕方ない
がまんして しっかり火を燃やしなさい
やがて調子が出てくると
ほら お前達の今の心のようなオレンジ色の炎が
いっしんに燃え立つだろう
そうしたら じっとその火を見詰めなさい
いつのまにか —
背後から 夜がお前をすっぽりつつんでいる
夜がすっぽりとお前をつつんだ時こそ
不思議の時
火が 永遠の物語を始める時なのだ

それは
眠る前に母さんが読んでくれた本の中の物語じゃなく
父さんの自慢話のようじゃなく
テレビで見れるものでもない
お前達自身が お前達自身の裸の眼と耳と心で聴く
お前達自身の 不思議の物語なのだよ
注意深く ていねいに
火を焚きなさい
火がいっしんに燃え立つように
けれどもあまりぼうぼう燃えないように
静かな気持で 火を焚きなさい

人間は
火を焚く動物だった
だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ
火を焚きなさい
人間の原初の火を焚きなさい
やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
自分の価値を見失ってしまった時
きっとお前達は 思い出すだろう
すっぽりと夜につつまれて
オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを

山に夕闇がせまる
子供達よ
もう夜が背中まできている
この日はもう充分に遊んだ
遊びをやめて お前達の火にとりかかりなさい
小屋には薪が充分に用意してある
火を焚きなさい
よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に組み立て
火を焚きなさい
火がいっしんに燃え立つようになったら
そのオレンジ色の炎の奥の
金色の神殿から聴こえてくる
お前達自身の 昔と今と未来の不思議の物語に 耳を傾けなさい

「びろう葉帽子の下で/山尾三省詩集」(1993年、野草社刊)より

「必ず屋久島に参ります」がお別れの言葉でした。

その後、念願がかない、屋久島の屋久杉を訪ねる旅が
決まり、屋久島に行きました。
ですが山尾さんは私たちの滞在の二日間が
「屋久島地球環境サミット」に来賓として招かれており
現令和天皇ご夫妻も参加ということで、再会はかないませんでした。

そのことの交わしが電話での最後の会話となりました。

屋久島の空港で「浩宮さまと雅子さま」を
拝見できたのはラッキーでしたが。

その後ほどない2001年の8月彼は天に
帰られました。

金沢のYさん、山尾さん、ラマナ・マハリシさんに
深い感謝を捧げます。

いただいたご縁を深く感謝いたします。
ありがとう。

問い  17

自己の本性は何でしょうか?

真理の内に存在するものは自己のみである。
世界や個々人の人格、そして神は、真珠母貝の
銀色の輝きのように、自己の内に現れるものである。
これら三つは、同時に現れ同時に消えていく。
 自己は「私」という想いが絶対にないところにあるものである。
それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、
自己そのものが「私」であり、自己そのものが神である。
すべてはシヴァであり、自己である。