2475「羽目になったこと」2021.10.4 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年10月01日の記事を紹介します。

「やる羽目になったこと」

今日は小林正観さんの「やる羽目になったこと」と言うのをご紹介します。

つまり、自分からバタバタせずに、流れに任せて行けば、いつの間にか生まれて来た、目的を達成しているような方法のご紹介です。

生きていると、理不尽に思えることや、「自分ばっかり」と思えることや、

「あの人は逃げてばかりで、どうして私が・・」など沢山起こってきます。

これらに一つひとつ、

不平不満を言い、自分の悲劇を嘆き、呪い、神様に文句ばっかり言っていたらどうなるでしょうか?

宇宙には「与えたものが、受け取るもの」という法則がありますから、

不平不満、愚痴や呪いの言葉を口にしていたら、その何倍もの、同じことを口にしたくなるような、むごい出来事が、自分に起きてくるでしょう。

だからと言って、無理に、ぐっと口をつぐみ、ヘラヘラと笑っていくことなど難しいかもしれません。

そこで、正観さんのお話です。

<転載開始> 転載元

もう40年も前の話、私が20歳のころに、旅先でよくこんな質問を受けました。

旅をしている20代のOLさんが多かったのですが、そのOLさんたちがこんな質問をするのです。

「コピー取りとお茶くみしか私には仕事がありません。

4年制の大学を出たにもかかわらず、コピー取りとお茶くみしかやることがありません。

そのために大学を出たわけではないので、毎日がむなしくて嫌々仕事をしています。

本当の私、本当の私の仕事に出会うためには、どのようにしたらいいでしょう。

取りあえずは今の会社は辞めたいのですが」

私の答えはいつも一緒です。

「私がもしあなたの上司であるならば、コピー取りとお茶くみを嫌々やっている人に、

それ以上の難しい仕事を頼むことはないと思います。

コピー取りとお茶くみさえもちゃんとできないのであれば、それ以上に何かの企画を頼んだり、何かの商談をまとめてくれと責任を持って委ねたりということには、ならないのではないでしょうか」

やる羽目になったことは嫌がらずにやる。これが宇宙の法則です。

ただ、この話は、

・努力しなさい

・頑張りなさい

と言う話とは違います。

努力の「努」には、嫌々、無理やりやらせる、嫌々なのだけど、無理やりやらされるという意味が含まれています。嫌々やらされている奴隷の「奴」の人の「心」。

つまり、奴という文字の下に心を書いて奴隷の心。

これは「怒」という文字になります。

なぜ怒りなのか。無理やり嫌がるものをやらされるからです。

イヤなことを無理やりやらされることが努力。

そして、その努力に無理やり追い込まれ人間の心が、怒りという文字になりました。

では、たとえば、家の中の家事が楽しくない。

子守・子育てだけが仕事なので、自分の人生はむなしいと思っている主婦がいるとします。

その場合に、そのむなしさを解決する方法が2つあります。

1つは、その子守・子育てを投げ出してしまうこと。やめてしまうこと。

ですから、離婚をするなり家を捨てるなり、という選択があるかと思います。

もう1つの選択方法があります。

それをイヤなものだと思わずに、楽しいものと思ってやり始めるという方法です。

この方法は誰にも迷惑をかけません。しかも、自分自身が楽しくなるような選択ですから、それからの時期が楽しくなると思います。

考え方やとらえ方を変えることによって、物事の価値が、内容が、だいぶ変わってきます。

根元的な話ですが、自分のまわりの気に入らないことを、

「気に入らない、気に入らない」と言っている間は、たぶん何も解決しないでしょう。

自分のとらえ方や考え方を変えることで、ものが全然違うものに見えてくる。

全然違う状態に見えてくる。この方法が自分にとっては一番ラクだし、一番速い方法です。そして、究極の方法でもあります。

自分の思うように環境を変える、状況を変えるのではなくて、自分の考え方やとらえ方を変える。これが一番ラクで簡単な方法なのです。すべてのことにこれは使えるので、この方法を身につけたら、人生生きるのがとてもラクになります。

<転載終了>

私たちは、輪廻しています。縁のある人とともに転生を繰り返します。

夫婦、兄弟、親子、友人、同僚 それぞれに役割を変えて、魂の進化のために、転生を繰り返すようです。決して、魂の波長が似ている仲好しの「ソウルグループ」だから、という理由だけではないようです。

ですから、もし家族の中において、問題が発生しているのならば、それは、その問題を通じ、

お互いの魂の向上を図るためです。時には一方が、悪者役をやることもあります。

また、生きていく上で、誰かが自分本位の卑怯なやり方で逃げたり、

私たちを貶めて、自分だけ得をしたり、人々の避難から逃れたりすることもあります。

そんな時、その人のことをいつまでも恨んで、呪いの言葉を口にし続けてもよいものでしょうか?

不幸になれ、失敗しろ、死ね・・などの言葉を口に出してもよいものでしょうか?

復讐の行為を実行してもよいのでしょうか?

そこにもやはり、正確に与えたものが、受け取るものという宇宙の法則が働きます。

その結果、被害者であったと思われる自分に、逆に不幸な出来事が雪崩のように起こってきます。

ですから、そういう人は放っておけば良いのです。

彼らにも正確に「与えたものが、受け取るもの」という法則が働きますから、卑怯なことをしたり、人をだましたり、貶めたりして、一見有利な立場に立ったと見えても、必ず、同じものが彼ら自身に帰ってきます。

ですが、そこはもう「神様の領域」のお話になりますので、私たちは、ただ人を怨まず、

仕返ししたりしようと思わず、淡々と自分のなすべきことを行っていれば良いだけになります。

最初は難しいかもしれませんが、それを逆に、楽しいもの、自分を向上させてくれるものと、

感謝の気持ちに切り替えてしまえばよいのです。

自分のなすべき事とは、頼みごとを淡々とこなす。

やる羽目になったことを淡々とこなす。。 

と言うことです。

これらは、全て神さまが人生の中で流れを作ってくれています。人間の頭で考えて

ジタバタしないことです。そしてその時に無理をしてはいけません。

イヤイヤながらもいけません。それをイヤなものだと思わずに、楽しいものと思ってやり始めるということです。

楽しいと思うのは難しい・・そう思われるかもしれませんね。。

ですが、やる羽目になったこと、頼まれごとと言うのは、神様が運んでくださったことです。

それは、もしかしたら、今までできなかった仕事かもしれません。親の介護かもしれません。

もう一度言います。

でもそれは、神様が運んできてくださったものなのです。

神様は、私たちを

・不幸にしてやろう、

・懲らしめてやろう、

・破滅させてやろう

などと絶対に思いません。

全ては、因果の法則、その現象には因(原因)があるのです。

生まれる前から決めてきたことなのです。

私たち、お互いの魂の進化のために・・

そうであれば、喜んで、それを受け入れてしまった方がどんなに幸せになれることでしょうか?

神様は、ほとんどの場合、私たちに幸福をもたらす時、まず、それに不幸、ピンチの装いをさせます。ピンチこそ、チャンスなのです。

その大きな恩寵を受け取れるどうかは、私たちの心ひとつにかかっています。

全部、大丈夫なようにできています。

どうぞ、安心してください。