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昨日の通信でサイパン島のことを書いた。同じ物語がペリリュー島でもあった。この島はパラオ諸島の1つで、パラオもサイパンと同じく、第一次世界大戦後は日本の国際連盟委任統治領として、日本が統治していた。日本はこの広い南洋の島々を統治するのに、南洋庁を設置し、パラオにその庁庁をおいた。南洋県とするところを、あまりにも広いので南洋庁としたのである。
パラオもサイパンと同じく、スペインとドイツの過酷な植民地統治を受け、虐殺で人口は減り続けた。パラオの人口は90%減った。そして日本人が来た。これからまた、同じ運命を辿ることになると島民は恐れた。しかし、日本の統治は違っていた。道路を作り、水道、電気などのインフラを整備した。病院を作り、学校も作った。島民は日本人と共に働き、南洋に楽園が出来た。
ところが、20年あまり経って第二次世界大戦となった。日本はこの地域を守備するために兵を増強し、パラオには1万人を駐屯させた。しかし、パラオは人口が多く、庁庁もあることから、軍はパラオ本島から離れた人口1000人程度のペリリュー島に駐屯した。島民は全て日本国民であった。
戦争末期になって、ここもアメリカ軍が攻撃の標的にしてきたので、日本軍は激しい戦闘を予期し、1000人の島民をパラオ本島に強制移住させた。疎開させたのである。その時、島民の若者は「我々も同じ日本人だ、共に戦う」と申し出てきたが、日本はこれを断った。すっかり日本国民になりきっていた島の若者は、入隊を志願した。代表の若者が、それを申し出るために指揮所を訪れたが、温厚な性格の守備隊長の中川州男はこの時ばかりは、「帝国陸軍が貴様ら土人と一緒に戦えるか」といって追い返した。
昨日まで、一緒に歌を歌い、一緒に農作業をして、和気あいあいと暮らしていた日本人のあの態度は、単なる見せかけだったのかとガッカリしたという。しかし、その1年後には、全ての日本兵は戦死し、そこに彼らは一人もいなくなったのだ、と言うことを知って彼らは涙を流した。あの強制疎開がなければ、今頃、島民も巻き添えで多くの人が亡くなっていたのである。この時の日本軍の措置は、残された我々日本人としては誇っていい事実である。
強制疎開で、島民全員が島を離れる時は、誰一人日本兵は見送りに来ない。しかし、船が島を離れた瞬間、多くの日本兵が見送りに来て、いつまでも手を振って別れを惜しんだ。そのうち、アメリカ軍が夥しい数の爆撃機で島を猛爆撃し、軍艦は艦砲射撃を浴びせ、その上で大量の戦車を上陸させ、激しい陸戦が始まった。
昭和19年9月に始まったペリリュー島総攻撃で、アメリカ軍は最初は3日もあれば落せると踏んでいたが、70日以上戦闘が続いた。1万人いた日本兵は全滅した。戦後になってパラオの青年たちは、日本軍は我々を戦死させたくなかった、この戦争に島民を巻き込ませたくなかったのだということを知ったのであった。1万人の日本兵が戦死しているのに、パラオの島民には一人の犠牲者も出なかったのである。
戦後はアメリカ統治になったが、紆余曲折を経て、平成6年(1994年)10月にパラオはアメリカ合衆国から独立した。日本はこの戦争の目的をアジアの開放としたが、ここにようやくパラオも共和国として独立を果たした。ここでも、日本が掲げた戦争目的は果たされた。そして国連に加盟した。
パラオ共和国は国旗を月にした。「日本が太陽で、我々は月だ、日本があって初めて輝けるのだ」というのである。しかも、月を中央におくのはおこがましい、というので少し中心からずらしてある。出来上がった「月章旗」は国民投票で決定している。しかも、パラオ共和国の国定教科書には「日の丸の旗の下に」と書かれている。「我々は昨日まで日本国民だった」とのプライドがある。
すぐ近くの半島国家との、この差はどこから来るのであろうか。世にも不思議な物語である。日本政府は、半島出身の青年は昭和44年まで召集しなかった。出来るだけ半島の人には迷惑をかけないようにと配慮していたのであった。
パラオが独立した時の初代大統領はクニオ・ナカムラ(中村國雄)氏で、8年務めている。彼はこのペリリュー島で幼少期を過ごした。終戦の時はまだ2歳で、日本語教育は受けていないので、日本語は不自由であった。しかし、精神は日本人で、戦後アメリカ統治期間の昭和53年(1978年)には兄のトシオと共に、憲法制定会議に選ばれ、政治家への道を踏み出したのであった。そして独立運動に貢献した。
その後、2015年4月、天皇皇后両陛下(現上皇・上皇后陛下)がこのパラオをご訪問になり、玉砕した1万人の旧日本軍兵士を慰問して下さった。これでこのパラオでの戦争がようやく終わった。