2364「自己顕示と嫉妬」2021.6.16 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月09日「自己顕示と嫉妬」と

2021年06月10日「イエスの涙」の2つの記事を紹介します。

「自己顕示と嫉妬」

今日は、小林正観さんの「自己顕示と嫉妬」というお話をご紹介します。

心を汚し、本来持っていた「魂の神様の輝き」を曇らせ運気をどんどん下げていきます。

そこから発せられるどす黒い波長に引き寄せられて同じような心の人が集まり、ますます泥沼にはまっていくことになります。

<引用開始> 引用元

人間は、そもそも「たいしたものでない」のに、成長していくにつれて、心の中に「3つの感情」が芽生えてきます。

・自己顕示欲

・復讐心

・嫉妬

です。

この3つは、人からもてはやされて、高い評価を受けるようになった頃に出てきます。これらはすべて「マイナスのエネルギー」であり、神様から嫌われる性質です。

自分のことを「たいしたものだ」と認識したいと思うから、「自己顕示欲」が湧いてきます。

みんなが自分のことを「たいした人だと認めるべきだ」と思っているから、そうならないときに、「嫉妬」が芽生えます。他の人がちやほやされているのを見て、「どうして自分にはそうしないのか」という思いが、「嫉妬」です。

また、人から何か気に入らないことをされたとき、それを「5倍、6倍にして徹底的に嫌がらせをしてやるぞ」と思う気持ちが、「復讐心」です。

先日、高い技術を持った人にお会いしました。その人の実力は、たしかに誰もが認めるところです。しかし、話を聞いていると、「自分がどれほどすごい人か」という話に終始していました。

自分の話ではなく、「技術」の解説をしていたら、聞いている人はさらにその人を尊敬したでしょうし、その人は、さらに「喜ばれる存在」になっていたでしょう。

ところが、

・雑誌に紹介された

・有名人と知り合いだ

という自慢話が続いたのです。

どれほど「すごい実力」を持った人でも、口から出るのが「自分がどれほどすごい人か」という自己顕示欲、「自分はこんなにすごいんだけど、別の人が評価されているのは許せない」という嫉妬、「いつか見返してやるんだ」という復讐の言葉ばかりなら、誰も話を聞きたいと思いません。

「自己顕示」「復讐心」「嫉妬」の3つの感情を持つ人は、損をしています。

とても、もったいないと思います。

「どれほどすごい人物か」というのは、自分から話さなくても、伝わるものです。

「すごい実力」を持っているのだったら、ただ黙って行動で示せば、誰もが認めてくれるでしょう。

<引用終了>

この「自己顕示」「復讐心」「嫉妬」という感情は、どなたの心の中にも浮かんでくると思います。ですが、気が付いたら一つづつ、感謝の心で昇華してきたいものですね。

この3つの感情があると、どんどん美しかった心が曇ってきます。

最終的には真っ黒け。周りの人も、話さなくとも、その気配(氣、オーラ)を感じ、だんだんと離れてしまいます。寄って来るのは、同じ波長、同じ心を持つ人ばかり。

自分のことを認めて欲しい、尊敬して欲しい、丁寧に扱って欲しい

そんなことを思って、必死になって心を汚さなくとも、神さまは、私たち一人一人が、あるがままの姿であっても居場所を用意してくださっています。

そして、必要な人を周りに配置してくださっています。

神さまを信じ、安心して、周りの人と、お互い様、おかげ様と愛と優しさ、笑顔で接していれば、必ず、自分らしくいるだけで、人々と仲良く、幸せに人生を歩んでいくことができます。

そして、気づいてみれば、いつの間にか人生の目的を達成していることでしょう。

皆様が内なる神さまに気づき、お幸せになられますように。

「イエスの涙」

私の敬愛するイエスは、クリスチャンではありませんでした。

イエスの死後、ペテロを初代教皇としてヴァティカンが中心となりクリスチャンの戒律や聖書の編纂がなされました。その後キリスト教という宗教が世界を圧巻することになります。愛の宗教であるはずが、その宗教ゆえにお互いに憎しみ合い、殺戮の歴史が繰り返されました。

イエス自身はその生前において、排他的であったり、戒律などを定めたわけではなく、

・お互いに愛し合いなさい

・自分がして欲しいことを他人にもして差し上げなさい

と説かれていただけなのだと思います。

これは私の個人的な意見です。

・この2千年間のクリスチャンの歴史、

・何者かに利用されてきた歴史、

・騙され続けてきた純粋な良き人々の歴史

果たして、その歴史は人類の進歩にとって良い流れであったのか?

まずイエス本人の意思、願い、目的

そして彼を地球に使わして下さった父なる神の意思、願い、目的を慮る必要があります。

この究極の愛の精神の持ち主が、

・あなたたちは生まれながらの罪人である(原罪)

・自分の命を犠牲にして友に尽くしなさい

と言われるでしょうか?

私たちクリスチャンで無い者たちが、最も真面目なクリスチャンの方々のオーラから感じる違和感は、この2つではないでしょうか?

この2つ考え方は

・私たちの心に罪悪感を植えつけ

・本来の伸び伸びとした生命の躍動感を奪い去り

・過度の自己犠牲の精神は、人間の自然な本能である「生きる」と矛盾を生みだし

・ゆがんだ優越感、そうでない人たちへの批判、その結果の分離の心

などを生みだします。

その見えない雰囲気に、クリスチャンで無い方々が無意識の拒否反応を示すのではないかと思います。イエスや父なる神が、愛する人間に、このように心が萎縮するようなことを仰るでしょうか?

愛の塊である方々が、そのようなことをなさるはずがありません。

人々の心を萎縮させ、常に不安の中、罪悪感の中に置くことは、何も知らない人民を支配しようとする何者かにとっては好都合です。

その手法はキリスト教だけでなく、お金の力で私たち人類を何世紀も支配してきた一部の人々の手法

・お金が全て、貧困になってしまえば、みじめな暮らし、破滅、死

・人を蹴落としてでも努力して高みに登れ、常に努力し続けよ、まだまだ足りない

と全く同じです。

私たちが生まれた時、この地球に生を受けた時、

・純粋無垢で

・希望と好奇心に満ち

・世界中の見えるもの、見えないものから祝福され

・神さまと約束してきたことを「よし、やるぞ」「みんなと仲良くするぞ」と

イキイキとした生命の躍動感の中に生まれました。

ですが成長するにつれて、人類を支配しようとする者、人間本来の力を目覚めさせたくない者たちの教化の中に置かれました。

大人も、学校も、世間も、もうそのように洗脳されていたからです。

いつの間にか洗脳に染まり、同じ道を行く子供

そして、その洗脳を解くために、ある使命を持って生まれてきた子供

色々な見えない戦いがありました。

愛の人であるイエスや父なる神が、私たち人間を罪悪感の中に身を置かせ、不安の中に、常に渇望感の中に生きよ・・  そう仰ったでしょうか?

明らかに、下記の2つ

・あなたたちは生まれながらの罪人である(原罪)

・自分の命を犠牲にして友に尽くしなさい

は意図をもって、曲解されて伝えられたものだと思います。

イエスは決して「あなたたちは生まれながらの罪人だ」などとは仰らなかったし、

ヨハネによる福音書15章13節の『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』の命と日本語に訳された元の英語の「life」と言う言葉も、本来は、

・命

・生活

・生涯

・一生

という4つの意味が、同時に込められていますから、イエスの仰りたかったことは

友のために人間が出来る、もっとも大きな愛は、友のために、自分の真心を捧げること。

の方がイエスの心を表しているのではないかと思います。

友達が困っていれば、すぐさま何が何でも命を捨てる。

そう決心できた自分に対する自己賛美、自己陶酔

そう決心できずにいる人たちに対する蔑みの心、優越感

そんなものがもし芽生えてきたのなら、イエスの意図したことと、かけ離れたものになってしまうでしょう。

私たちは今、21世紀が始まって20年になりますが、資本主義が、お金の支配の世界が、

断末魔をあげている世界で暮らしています。

滅び去ろうとしている

・今さえ良ければよい。孫や子供のことなど知らない

・お金だけが全て。人を騙してでもお金を手に入れよう

・自分さえ良ければ、人のことなどどうなってもよい

という「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界観に何時までもしがみつこうとしている人も、まだまだいます。

ですが、もうそのような時は終わろうとしています。

これから始まろうとしている世界、

いえ、もう既に変わった世界では、心が第一優先に扱われます。

・人間は本来、心次第で無限の可能性を秘めている

・私たちは、お互いの個性を尊重し、自分も尊重され、生命の躍動の中で何にでもチャレンジできる

・私たち人間は助け合って生きて行くことで、調和して何の心配も憂いもなく生きていける

そのような霊主体従の世界です。

みんなの心が大切であって、お金や、地位や、持ち物の多い少ないではなく、心は何物にも縛られず、生まれながらの、生命の喜びのままに生きて行っても良い世界です。

そして、その世界は、私たち一人一人の心から始まります。

もうイエスが悲しむような長い長い呪縛から解かれる時期かもしれません。