「国際赤十字活躍」 奥の院通信 R3 6/13

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チェコ北部にテレジエンシュタットと言う町があり、そこにユダヤ人収容所があった。そこはユダヤ人だけが使用を許されている収容所で、特殊な条件で治められていた。そして、赤十字委員会の代表たちがこの収容所を訪れることが出来た。

 彼らの集めることが出来た情報によると

 「この収容所は、ナチス国家の指導者が考案した実験場としてスタートしていた。この指導者たちは、ユダヤ人に一都市を許し、そこに共同生活の場を打ち立てる手段を与えたいと望んでいた。そして、その都市はユダヤ人自身の管理下に置かれ、ほとんど完全な自治機能を備えた都市だった。

 委員会から2人の代表が派遣され、1945年4月6日(ドイツの敗戦は5月7日)に収容所を訪れることが出来た。2人の代表は、最初の訪問時に得た好印象を再確認した。」という。

 その上で、報告書は以下のように書いている。

 「ICRCは、ファシスト国家ルーマニアのアントネスク支配体制をも賞賛していた。当時のルーマニアでは、赤十字委員会は183000人のユダヤ人に、特別援助を拡大することが出来て、これは戦後ルーマニアがソ連に占領される時まで続いた。しかし、援助はソ連占領時に停止し、ICRCは、「それ以来、我々はソ連には、ちょっとした物さえ贈ることが出来ないでいる。」と敵意を以て不平を漏らしている。

 これと同じ状況が、ソ連から解放された後、ドイツの多くの収容所で起きている。ICRCは、アウシュビッツからもソ連占領までは、このような感謝状を大量に受け取っていた。しかし、ソ連占領が始まってからは、感謝状は全くなくなった。赤十字の援助の努力は空しく放置されていた。アウシュビッツの拘留者で西側のブッヘンワルドやオラニエンブルグの収容所に移された人たちへの食料小包は、これまで通り送られていた。

 赤十字報告のもっとも大きな功績は、戦争末期に起きた数々の死の原因を明らかにしたことである。赤十字報告は言う。

 「連合軍のノルマンディー上陸以後の戦争の最終局面において、ドイツは混乱状況に陥り、各地の収容所には食料が全く届かず、飢饉が発生し、犠牲者は急増していった。ドイツ政府もこの状況に危機感を抱き、遂に1945年2月1日、ICRCに通報し、1945年3月ICRC主席とSS将軍カルテンブルナーとの会談がもたれ、決定的な結果が生まれた。以後、緊急物資としてICRCが直接分配できることになり、それぞれの収容所には赤十字の代表一人を常駐させた。」と

 ドイツ政府はこの状況を救済しようと、腐心していたのは明らかである。何が絶滅計画だ、殲滅計画だと言いたくもなる。作り話もいい加減にしたらと、我々第3者としても言いたい。それはともかく、赤十字側もまた連合国のドイツ輸送路への爆撃によって食糧配給が出来なくなった事情を詳細に語り、拘留されているユダヤ人の利益を代表して、連合軍の野蛮な空爆に反対する抗議を1945年3月15日に行っている。

 またその前の1944年10月2日、ICRCはドイツ輸送システムが崩壊の危機に瀕しており、全土の飢餓状態は避けがたくなってきていると宣言した。そしてこの報告書は極めて重要な報告をしている。それは、枢軸国側支配のヨーロッパ地域のどの収容所においても、ユダヤ人を虐殺するべく考案された政策が存在したという証拠を一切発見できなかったという事実である。

 総計1600頁の報告書には、ガス室の如きものがあったとの言及はない。報告書は確かにユダヤ人は多くの戦時下の国民と同様、生活の厳しさと物資の欠乏とに苦しんだことは認めている。しかし、民族絶滅計画に関して完全に沈黙しているのは、600万人虐殺神話など存在しなかったと言うことを意味している。あれば何らかの言及があるはずで、少なくともこの時期そんな話はなかったのである。と言うことはこの神話は戦後作られたものであり、前々から密かに練られ、終戦と同時に言い始めたのである。

 収容所にユダヤ人医師も沢山いたが、彼らはユダヤ人指導本部から東方の戦地に行かされて、不在だったことも悲劇を大きくしている。間違ってはいけない、彼らはドイツ政府から生かされたのではない、ユダヤ人指導者から生かされたのである。ユダヤ人もドイツとは戦争していたのであることを忘れるとこの問題が分からなくなる。収容所と家でも、ユダヤ人は自治権を持ち、ドイツ政府の介入は断固拒否していることを忘れてはならない。彼らの中にも医者はいただろう、という勿れである。自業自得と言ったら叱られるだろうか。