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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年06月03日の記事を紹介します。
「大丈夫の小石」
私たち人間は弱いものです。
何か自分にとって不都合なことが起きれば、何かにすがって、それを取り除いて欲しいと依存したりその環境から救い出して、自分にとって幸せ、安楽と思える場所へと移動させて欲しいと願います。
ブッダは私たちの苦しみの原因を
思い通りにならないことを思い通りにしようとすることそうおっしゃいました。
世の中の出来事
全て神様の意思で起こっていますがこれらは決して私たちに、都合よく起きてくるわけではありません。
ですが、私たちを破滅させよう、苦しめてやろうと起きるわけでもありません。
神様が見ているのは生死を超えた永遠の時間の中で、私たちの魂がより美しく輝くには、どうしたらよいか?それだけです。
人間の一生のほんの数十年の短いスパンで見ているわけではありません。
ですが、生きている私たちにはその神々の深い心を理解することができないために、
・病気であれば、早く治して
・貧困であれば、お金持ちにして
・子供が言うことを聞かなければ、良い子にしてください? と頼んだり
環境を恨み、境遇を呪います。
それは、まさに、せっかく その場所、その境遇で、自分なりの美しい花を咲かせなさい・・
そのように言ってくださっている優しい神様をうらみ、のろうことと同じです。
私たちの人生は、どのような人生であれ、生まれる前に自分で全て設計してきました。
そして神様の承認を得てきました。
ですので、どのような出来事が起きようと、どのような境遇に置かれようと、本当は大丈夫なようにできています。
その深い神様の愛に感謝せず、自分の都合ばかりを押し通そうと、恨み、呪ってばかりいては、神様も、助けてあげたくとも、決して手出しはできないでしょう。
私たち自身の心から、依存の心、恨みの心、呪いの心が消え去り、感謝の心が芽生えるまでは、神々さえも 救いの手を差し伸べることができません。
全ては、何か大きな力によるのではなく、私たちの心ひとつの 置き方にかかっています。
それでは今日は、今、辛い思いをされている方、心の中で、ザワザワと、恐れや不安の嵐が吹き荒れている方に書きたいと思います。
置かれた場所で咲きなさい で有名な渡辺和子さん。
お亡くなりになりましたが、元ノートルダム清心学園の理事長で、カトリック修道女でした。
彼女は50歳の時、うつ病になったのだそうです。
<引用開始>
「忘れかけていた大切なことほほえみ一つで人生は変わる」より
曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、「だいじょうぶの小石」というお話があります。
仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石を患者さんに、握らせてあげるのだそうです。
その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、それを握らせてもらった人は、
「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」と喜びます。
すると、その方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」とおっしゃるのだ、というお話なのです。
この話を読んで、私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。
これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。
祈れば
・神が私の願い通りにしてくださる、
・病気を治してくださる、
・夫の怪我を治してくださる、
・子供の暴力を止めてくださる、
というのではなく、どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、
腹のすわった心がまえ、そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。
「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」
・私たちが祈ると神は聞いてくださる。
・神さまが、私たちの意のままになる。
そのように想いがちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心を、行いになるのです。
私は「欲しいもの」を願うけれど、神は「要るもの」を下さるのです。
お父様は2.26事件の際に若き将校にピストルで打たれ絶命しました。その時彼女は父と一緒におり、当時9歳でした。
私は26年前、うつ病になりました。
50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。
その時、一人のカトリックのお医者さまが、「シスター、運命は冷たいけれど、(神の)摂理は温かいですよ」と慰めてくださったのです。
その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。
治りたい!治りたい!とだけ想い、
・神をうらみ、
・愚痴を並べ、
・そして暗い顔
をしておりました。私が唯一、微笑むことの出来なかった時期です。
その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。
この世の中に起こることを
・しようがないこと、
・降って湧いたような天災、
・人災
つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るなら、
・摂理として
・神のはからいとして受け取る。
だから「大丈夫だ」ということなのです。
渡辺和子 人を許した時、許した人は自由になる
私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない。
でもいつか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることが、
すべてを摂理として受けとめるということです。
(略)
神の摂理として病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。
病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。
それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、なぜ、もうちょっと頑張らないんだ、
などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。
自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。
そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。
(略)
皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。時たまポロッと落としてしまってもかまいません。どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。
でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。
<引用終了>
運命は冷たいけれど、(神の)摂理は温かい 本当の事ですね。
でもきっと、「冷たい」と思うのも、限られた時間と空間の中でしか生きられない私達には
仕方の無いことかもしれません。
神様の目線は、もっと大きくて優しくって温かい。
常に私達に良きものを与えて下さろうとしています。
病気や事故などは、私たち人間を優しくしてくれるのだそうです。
神さまは私たちを「苦しめてやろう」などと、決してお思いになりません。
全ての出来事は、それを神さまが私たちに起きることを許した出来事なのです。
だからどちらに転ぼうと、神様と共にある限り、絶対に大丈夫なんですね。。
最後に置かれた場所で咲きなさいより・・
自分の良心の声に耳を傾ける
私たちの心の中に、善いことをすすめ、悪いことを制止してくれる
”王さま”が住んでいるのだから。
良寛さんも、こう仰いました
災難に逢ったら、それから逃げ出そうとせずに、災難に直面するがいい。
死ぬ時がきたら、ジタバタせずに死ぬ覚悟をするがいい。これこそ災難をのがれる妙法なのだ。
これは、あきらめの心ではなく、神さまの下さった現象を、しっかり受け取り、感謝するということ。不平不満、じたばたせず、現実を素直に受け入れる。その時 道が開かれます。
こうみてくると、神さまを信じたからと言って、現実が変わるわけではありません。
私たちの心が変わるだけです。ですが、それが全ての変化を引き起こします。
すべての出来事を受け入れて、感謝できる心に変わることで、一見現実は変わらなくとも
心は、見える世界、見えない神の世界・霊の世界を包括していますから、
上にあるが如く下もかくありの言葉の通り、心の状態によって現実の世界にも変化が現れます。
皆様が、心の中の神様を信じ、心に、平安を取り戻せますように・・・・