どうしても赦せないお人や ことについて

日常さまざまな発信をしています。

ブログについては感想とか返信は
できないシステムにしています。
でもたまたま切なる思いがある方たちから
直接に連絡があります。

本日は答えることによって、こちらも学びを
いただいていますので、あることをどうしても赦せない方への
お答えを記述させていただきます。

どうしても赦しがたいことは、お人ならば
人生上で起ってきますね。
そのどうしても「赦しがたい」ことこそ
宝物と言ってもいいようなことでしょうか。
言い換えれば「チャンス」なんですね。

そのようなことは今までやはり目の前にたくさん
起きてきました。
今、回想させていただきますと、そのようなことの中に
自分自身の生にたいする「らしさ」が隠れていたことに
気付いてまいります。

このこともまたあのこともすべて「捨てなさい」と
大いなる意志から語りかけられているかのような
気さえしてまいります。

「中道」へのいざないでしょうか。
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ある方へ

人として生まれたことの意味は
決して一度も分離したことはないのだと
確信ができるまで、その方の目の前に
さまざまな出来事やお人とのご縁として
生まれてまいることの中にあるのでしょうか。

それは人として生まれさせていただいた
大いなるものの心を知れと言っているようなもの。

まずこの世に、良いとか悪いとか、正とか邪とかは
ないようなのです。なぜかといえば、人は
人とは異なる分離していると思い込んでいますから、
どうしてもできごとやお人をそのように
二つのことで判断しようとしてしまいます。

出来事やお人とのご縁は向こうからやってくるのではなく、
すべて自分が引き寄せたものです。
自分といいますか、自分を生み出したおおいなるもの。
その大いなるものは実は自分自身でもあるようなのですね。

そしてお相手とか、出来事などを通じて
早くそのことに(分離などしていない)気づくようにとの
天の恩寵なのでしょう。
ですから出来事が難しい、耐えられないようなこと、
大きな困難であればあるほど、その方への全体への
願いは大きいものと言わねばなりません。

そしてそれは苦手なお人なども同じです。

熊沢蕃山という陽明学で聖人中江藤樹さんの
お弟子さんだった方などはこのようにうたっています。

「憂きことの なおこの上に積もれかし

限りある身の 力試さん」

どんどんつらいことよ、来てください。
人間としてのこの限りがある人生での
自分の力をためそうではないか。

そんな意味なのでしょう。

そうですね。
もっともっとこんなものでは自分はないよ。
もっと来てください。
自分はもっと学びたいのです。

そう叫んでいるかのような、力強さを
感じます。

すべて 「あなたは私」 なのですね。

分離していないのならば、ほんとうは
赦すも赦さないもなく、
初めからお相手と自分は別れてはいませんね。

できごとは自分の今ある心の状態を
「中道」へと導く大切な天のギフトでしょうか。

「汝の敵を愛せよ」

「隣人を愛せよ」

「いつも喜んでいなさい」

イエス キリストの言葉です。

でもキリストのようにならなくてもいいでしょうかね。

あなたはあなたです。
そしてあなたは全体で 無限ですから。

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