2304「無知の知2」2021.4.17 自分で自分を自分する から

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さて。いかがだったでしょうか。かなり深いですよ。「無知の知」に始まり、時間のことに繋がり、命(生死)の価値、愚鈍な「覚醒」という勘違いについてまで。「ひとつ」に関しても、これまでハンドラーたちによって歪曲され伝えられてきていました。

これはヤハウェ「666」愛の叡智、囚われ封印されてきた縄文、津軽蝦夷、日高見国、そして北イスラエルの民の魂そのものの叫びとも言えます。

多くの人は、「私はこれだけ知っている」と誇り、無明なる人々を救ってやらねば、と、自らがまるで「覚者」になったかのように、「拡散」に奔走します。このような状態について澤野さんは、「もっとも唾棄すべき無知の極み」だと仰います。「無知の知」の対義語が「全知の無知」「全知の無知」とは、自分が神にでもなったかのように、全能を誇ってしまうこと。自分は覚者である、私は神である、私は覚醒した、などと恥ずかしげもなく自らが高慢に語ること。

前回の青森講演会では、人はいとも簡単にダークサイド(鬼)の誘惑に負け、奈落の底まで堕とされてしまう、堕ちたことさえ本人は気が付かず、うっかり鬼と契約させられてしまい、

鬼の片棒を担いていることすら気が付かず、さらには、神通力でも授かったかのような奇跡や眩いばかりの「神」の皮を被った「女神」「天使」と見紛うてしまう化け物の実態というものを体験させられ、さらに、あまりにも奇跡的に順調にことが運ぶが故に、嬉々として調子に乗ってしまい、堕ちていることすら本人は気が付かずに全能を誇ってしまう、ということを、おさらいしました。

私たちが一旦、澤野情報に足を踏み入れたならば、必ずといっていいほどアラハバかれていきます。アラハバキは一定のものではなく、人の数だけあります。その人が心の奥底に秘めて封印している、あらゆるものが表に表出してきます。しかもそれらは意図せずに顕れてきます。隠し切れなくなった「わだかまり」が「解放のカタルシス」というものを求めて表に出てくるのです。

多くの方がこれまで持っていた既存の思い込みや通念、そして「こうあるべきだ」という願望に立脚した個人的な意向や、感情ベースで積み重ねられてきたものがことごとくアラハバかれていきます。「自分だけは大丈夫」といった思い込みこそが一番厄介だと仰います。

アラハバキの作用の本質とは、「建前世界(三次元物質)の破壊」と同時に「伏在し封印されてきた世界(多次元世界)を引き上げる」こと。逆もまたしかり。

突出したどちらか一方を抑制し、封印されたどちらか一方を引き上げる均衡の働きのことを「アラハバキ」といいます。そしてその「アラハバキ」こそが本当の「愛」そのものでもあると仰います。

つまり、均衡をもたらすアラハバキの作用のことを「愛」と言います。「愛」とは惚れた腫れたのメイクラブのことではありません。「愛」には「感情」が存在しません。感情を加味した時点でそれは「執着」へと姿を変えます。

世に起こる激烈、そして苛烈な事象も、一部の領域にある視座から観察すれば、それは紛れもない「愛」そのものであるということになります。そしてそれは「個人」の中でも起こるのです。すべてはフラクタルで呼応しますから。

そこには巷間で流布されているような通年としての「愛」と表現されるいわゆる「優しさ」という感情や、喜怒哀楽は全く関係がないということ。私たちはこの「愛」によってどれだけの気づきや発見や学びがあったかわかりません。

逆に同じ「愛」でも、こちらが望まないことを「愛」という美名の下に、相手の立場を考えず良かれと思ってすること、わざとこちらが嫌がることをして自分に気を向けさせようとするような一方的な「愛」とやらは、決して、断じて「愛」ではありません。この古い「愛」を唱えてきた現代までのグローバリズムは間もなく終焉を迎えると澤野さんは仰います。(次へ続く)

虚構の三次元は終わり多次元的「本音」の世界へ(前回からの続き)

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12660696877.html

ひとつ前の記事『私の中の「666ヤハウェ」の浮上は無知の知と共に』

こちらより続きます。

縄文時代は「霊性はMAX」でしたが、「科学技術はゼロ」でしたね。

現在は、「科学技術はMAX」ですが、「霊性はほぼゼロ」へと貶められてしまっていますね。

つまり、私たちはまだ経験したことのない境地がひとつあるのです。それは、「霊性MAX」でありながら「科学技術もMAX」という境地です。霊性と科学技術が高次元で均衡する世界です。多次元世界と三次元世界が均衡するという世界のことです。

霊性と科学技術が50:50で均衡している境地です。このことを私は「半霊半物質」と言っています。「半霊半物質」って透明人間になるとか半透明になる世界のことではありません。まだ私たちが見たことも経験したこともない世界があるのです。

さて、グローバリズムとは何であるのか。それは、グローバリズムというものの根源にあるのは、南ユダ弥生のメンタリティです。わかりやすく言うと、たとえば、見ず知らずの相手、与り知らない相手の人生に入り、相手の記憶に侵入していくというやり方です。

「この人とどうしても仕事がしたい」

「この先生とどうしてもコラボしたい」

「この人と何とかして知り合いたい」

このように願うことはよくあることでそして通常の範囲内であればとても良いことです。

そして、ならば、それを実現するために自分を成長させ、憧れのその相手に見合ったレベルにまで己を成長させ引き上げていく作業を行っていく。

これが人が人として成長していくための王道中の王道でしょうし、そうあるべきでしょう。

しかし、こういう王道作業を「非合理的」であり「めんどくさい」と考える人もいるのです。

ならば、「人工的にシンクロニシティを演出して強引に関係を構築した方が、遥かに早いし、労力もかからない、合理的だ」という考え方です。こういう人に捕まってしまったら大変なのです。

彼らは結局自分の利益のことしか考えていませんから、あの憧れの先生とコラボをやったとしても、その上澄みをすべて持っていくだけなのです。

つまり、「あの人と仕事がしたい」というのは方便であり、つまるところ、相手の持っている「富」のエネルギーを吸い尽くし、己の利としたいというのが本音でしょう。

これを世界規模でやっているのがグローバリストでしょう。

本当の偶然、本当の運命があるならば大いに結構なのですよ。しかし、そういうのはなかなか起こらない。でも、関係は持ちたい。我慢できない。ならば、強引に関係性をクリエイトしてしまえば良いではないか、と。

すべて計算した上で、偶然を装って近づき、シンクロニシティを「演出」していくやり方です。これは良いことではありません。なぜならば、相手はそのことを知らず、本当に運命の出会いであると信じてしまっているのですから。

これは詐術であり騙しです。人の心をそうやって人工的に操作しようとするということは、人を人と思っていないということですよね。ならばそのようなことをする人とは絶対に付き合ってはならないのです。

このやり方をかつての縄文は弥生にやられたのです。これは完全に侵略者グローバリストの手口でありメンタリティです。この手口は乗っ取りであり、侵略であり、もっと的確に表現しますとそれはじつは憑依のことです。(澤野大樹)

憑依に関することも、第⑦回講演会でお話をしてくださいました。

グローバリズムとは弥生南ユダ侵略者メンタリティ、乗っ取り思想そのもの。やらなくともいいことをし、聞いてもいないことを言い、こちらが何もせずとも聞かずとも自らの本質が

自然に炙り出されてしまうというのは、アラハバキの作用です。

澤野さんが説く「アラハバキ(愛)」はこれほどまで深い意味があります。

病気も「愛」そのものなのです。病は、その原因を精査することなく、単なる「悪」として治してはいけない。

澤野氏が以前伝えてくださった、大切なこと。

己と向き合わないと、病気の根本的な治療にはならないということです。「病」は、己と向き合うために、おしえてくれる大切な気づき。「自己と向き合うため」に、わざわざやってきてくれた「愛」そのもの。「病」は感謝しかないものなのです。

病気にでもならないと、しっかり自己と向き合う機会はないだろうからと病気さんの方からからわざわざ出向いてくれて現れてくれた。まさに「無料エマージェンシーサービス」です。

ですので、「病気」をその原因を精査し、きちんと向き合うことなく、邪魔で厄介なものとして扱って三次元的な医療で物理的に「処理」してはならないのです。

もちろん、お医者さんによる治療は行うべきです。でも、それだけじゃダメなんです。病気にはちゃんと「原因」がある。まさかと思うような原因があります。

その人の一番弱いところ、思い癖、思考の偏り、固執した感情、執着、恨み、後悔、劣等感、自己喪失感、こういったことが長期間続くと「病気」になって現れます。「病気」とは、そんな心の不安定さを知らせてくれて、気づきを促すためにやってきます。だから、病気になったら、まずは感謝しかないのです。

その無償の自己犠牲の愛を「厄介者」として消したら大変なカルマを生みます。物理的な治療だけをしても、また病はやってきてしまいます。本当の「原因」が解決してないからです。

本当は、人は自らの病気の原因について、静かに内省し、徹底的に自分と向き合わなきゃならない。それは激烈な時間となります。これまでずっと無視してきたこと、目を背けてきたことと向き合わなきゃならない。

己の顕在意識がどれほどまでに本質的な自己を破壊してきたかについて、全人生を賭けて向き合わなきゃならない。そのために病気(がん)は現れてくれた愛そのものなのです。

よって、病は敵じゃないのです。 「がん」とはじつは自分自身の「本音」なのです。

今まで気づかなくてごめんなさいと謝り続けても足りないくらいの無償の愛。

それを放棄し、無視し、病気を「悪」とし、いち早く、一刻も早く治療を行うことは、広義において「自己」への冒涜。それは「宇宙」(ヤハウェ)への背信行為だと、そう澤野氏は伝えてくださいました。

「自分を冒涜すると、自分は自らを消滅させようと動き出します。」

澤野氏がお伝えする厳しくも愛溢れるアラハバキの叡智。「己と向き合うこと」

講演会の中で印象的だったのは、巷間言われている『風の時代に突入しました~♪』などと、

今、浮かれている場合ではない、と。

風の時代が到来した今だからこそ、自分としっかり向き合い、自己を確立しないとあっという間に吹き飛ばされてしまう、本当の「風の時代」とは、そういう意味なのだ、ということです。

これから、目を覆いたくなるような耳をふさぎたくなるような見たくなかった、知らんぷりして蓋をしていた自分自身が炙り出され、嫌でも自己と向き合わなければいけないような「耳の痛い話」がたくさん目の前に具現化されることでしょう。

しかし、恐れることはありません。目の前に現れた事象は紛れもない自分自身なのですから、どうか今度ばかりは誤魔化さず、スルーせず、しっかりと今まで蔑ろにしてきた自分をいたわり、ちゃんと向き合ってあげてください。

間違っても、逆ギレしてはいけませんよ。ほんの一瞬で風に吹き飛ばされてしまいます。

これまで蓄積してきた「負債」を、全部チャラでキャンセルして次の時代へ行きたいものですが、それだと「話のスジ」が通らないのです。

次のステージ、次の世界に行くということはなかなか一筋縄ではいかないということ。

三次元でも多次元でも泣きたくなるようなアラハバキという「愛」を通過してからの

「ミロク(666)の世」がやってくる。これは確かに素晴らしい未来を予感させますが、オートマティックな「オイシイ話」ではないのです。

自分を成長させたいと願うのなら、「己と向き合う」のみ。ということは、これからの「スピリチュアル」という分野こそが、もっとも巨大な変革を迫られるということ。

これまで世界人類の精神を支配してきたバビロン系スピリチュアルが終わるということ。

じゃあスピリチュアルはすべて終わるのでしょうか?それは違います。悪魔崇拝でもない、モレク崇拝でもない、偶像崇拝でもない、侵略でもない、乗っ取りでもない、憑依でもない、

これまでずっと隠され封印されてきた「宇宙」(ヤハウェ)と「ひとつ」という「本物のスピリチュアル」が浮上してきます。

間違っても「鬼の下働き」などさせられませぬよう、善かれと思って図らずもバビロン系に加担せぬよう。鬼はその人の一番弱いところにつけ込んで「血鬼術」を仕掛けてきます。

ぜひみなさん「本物」を取り戻していきましょう。

どうか、この大切なメッセージに今一度、耳を傾けてくだされば幸いです。