お話には勘違いがありますね。
こちらはしょっちゅう勘違いしています。
中江藤樹の最初の弟子となった馬方又左衛門の行為は
とても有名なお話です。
このお話に出てくる飛脚と、馬方と、武士のうち
武士の名前の勘違いが今回の「竹のものがたり」の
きっかけとなりました。
「近江の河原市宿にいた馬子の又左衛門は、京都へ急ぐ飛脚を馬に乗せて隣の宿場まで運び、河原市まで戻って馬の鞍を外すと、財布のような袋があり、中に200両もの大金が入っていました。又左衛門は「これは先ほどの飛脚が忘れていったに違いない。今頃困っているだろう」と、夕暮れの道を隣の宿場に再び向かいます。又左衛門が飛脚の宿を探し当てると、案の定、飛脚は青い顔をして荷物の中を探し回っていました。又左衛門が飛脚に財布を渡し、しかも中身が無事であることを確認した飛脚は泣いて喜び、「これは加賀藩前田家の公金で、紛失したとなれば私の命だけでは済まないところでした」と礼を言い、命の恩人の又左衛門に謝礼を渡そうとしますが、又左衛門は受け取りません。飛脚もそれでは収まらぬと押し問答の末、結局、又左衛門は歩いてきた駄賃として200文だけ受け取り、それで酒を買ってきて、宿の人たちと楽しそうに飲み始めました。その振る舞いに感激した飛脚は、「あなたは一体どのような方ですか」と尋ねると、又左衛門は「私は名もないただの馬子です。ただ近くの小川村に中江藤樹先生という方がおられて、毎晩のように良い話をされるので、私も時々聞きに行くのです。先生は親孝行をすること、人の物を盗んだり、傷つけてはいけないこと、困っている人を助けることを話され、私はそれを思い出したのにすぎません。」
このお話を、かの体験者である飛脚が京都の宿で
自慢げに話しているのを同席でじっと聞いていたある武士がいました。
最後まで話を聞いた後、話に感動をし、
飛脚にその中江先生の住んでいる場所を尋ね、
後に弟子入りをお願いすることになります。
この逸話を自分が聞いたのは、令和二年の春と令和三年の
2月中旬の二度でした。
こちらも感動し、中江藤樹は以前からキリストのような方と
感じていましたので、よく友人などにこの逸話を聞いていただいていました。
ですが同じように感動し、後に中江藤樹に弟子入りしたその京都での
武士は山鹿素行だと聞いていたのです。
山鹿素行は赤穂浪士の討ち入りで有名な陣太鼓、
「素行太鼓」でもよく知られていますが、赤穂の
浅野家で大変に厚遇されましたが、当時の林羅山の
朱子学を批判したために流罪にもなっていました。
林羅山の朱子学を批判したことは中江藤樹と同じです。
ただ山鹿素行は厚遇された浅野家に幽閉中に書いた「中朝事実」に
示されるように、日本の皇統こそが世界に誇るものとした
真の中華思想が根本にあり、後の吉田松陰や乃木希典に
影響を与えています。
東京の「素行会」で山鹿素行の研究に参加してみえる
A女子に、この逸話「馬方又左衛門の行為」をお伝えしたところ、
「おかしいなあ、山鹿素行は中江藤樹の陽明学とは
違うし、弟子ではないはずですが」と言われました。
恥ずかしく思い、中江藤樹と山鹿素行のことを
詳しく調べたところ、確かにその武士は山鹿素行ではなく、
実は熊沢蕃山なのでした。
Aさんには次の上京時に深くお詫びしました。
当時わけがあって岡山の池田藩を辞去していた
蕃山は師となる人を捜していました。
そのような時期に京都で逸話にであうのです。
中江藤樹の家を訪ねた蕃山は弟子入りを願います。
しかし藤樹は弟子入りを断ります。
蕃山が門の脇で二日間座り込んだ場所が現在、
門はないのですが保存されています。
藤樹は最初、座り込みで人を脅そうとするような
人間は、絶対に門人にはしない、と頑なでしたが、
蕃山の素直な生い立ちの話と、現在の心境を詳しく
聞くことになり、また蕃山の鋭い質問、
「先生は今、何を悩んでおられるのでしょうか」に心が動きます。
機を見るに敏な蕃山の真骨頂です。
それを受けて藤樹は他の門弟も交えて、良い機会と感じ
自分の少し悩んでいる心境を語ります。
「熊沢殿がおっしゃるとおり、今は武士に限らず、あらゆる人間が学問をしなければなりません。今は、学問をしないでは済まされない世の中になりました。したがって学問は今を生きる人間が第一におこなわなければいけない急務だと思います。ではいったい学問はなんのためにおこなうのかといえば、わが心の明徳を明らかにすることが根本です。それには、四書五経の精神を師とし、自分自身の日常生活の体験を素材にしながら、明徳をいよいよ明らかにするように努力することです。そのためには、まず親に孝を尽くし、祖先に孝を尽くし、主君に孝を尽くし、世の中に孝を尽くし、さらに天に孝を尽くすことが、この明徳を明らかにする大きな道筋だと思います。特にあなたのように、政治に志をお持ちの方はこのように全孝を尽くすことによって、やがて天地宇宙と一体となり、天道に則り得るような、必ずよい時節に出会って民のためによい政治をおこなう人物になられ、天下を納める大事業を達成されることでしょう。不幸にして時を得られず、窮迫することがあっても、わが身の修養完成に勤め、人々の教育に尽くせば、それも真の学問といえます。
このように学問の根本は、己の心の汚れを清め、本性である明徳をあきらかにすることでありますが、たとえ字が読めなくても、このように努力する人は、すべて聖人といってもいいでしょう。そこにおられる馬方の又左衛門さんやそのお仲間たちは、すでに聖人の域に達しているのです。その証拠に、あなたは又左衛門さんのお話を聞いて、ここにやってこられました。
迹(セキ)というのは、聖賢が「辞」(ことば)と実際に身で行われた「事」の二つです。心というのは、この辞と事によってあらわされた聖賢の本心をいいます。これが、四書五経に書かれた精神です。訓詁と言うのは四書五経の文字の読み方や解釈をいいます。したがって、順序としては四書五経を読むのにも、まず訓詁を学んだのちに、その迹を辿り、究極的には聖賢の心を自分の心の導きとして、努力すれば、やがて聖賢の心がそのまま自分の心になって、その後の自分の心の働きが聖賢の心にかなうようになります。そうなれば、自分の振る舞い、つまり辞と事とがともに聖賢の”事中の妙”に合致するようになります。このように学ぶのがわたしは真の学問だと思っております。
なぜ心の鏡である明徳が曇るのかといえば、目にたとえれば、目は本来ならすべての事物を、本心で正しく見るはずですが、ときにゴミが入ります。目は、ただしく見る力を奪われ、ゴミを取ることに人は努力します。目の中は涙で溢れ、曇ります。ゴミが取れれば、また目は再び事物を正しく見るようになります。これと同じです。それぞれわたしたちが持っている明徳、すなわち心の鏡も、たとえば、執心、好悪の執滞(好んだり、憎んだりすることが心にとどこおること)、是非の素定(いいか悪いかをはじめから決めてしまうこと)、名利の欲、形気の便(酒色に対する欲や、生活上の利益を求める心)などのいわば”五つの病”といってよいものが、目に入るゴミのように襲いかかります。すぐ除ければ問題ないのですが、これが人間としてはなかなかむつかしいことです。
よくわたしたちは子供を見て、まるでホトケのようだといいます。子供の心はまさに明徳そのものであって、この五つの病をまったく感じないからです。ですから、本心がそのまま辞と事に表れ、すなわち子供の心はそのまま聖賢の道に通じています。それが年を取るにつれて、五つの病が入り込み、明徳を曇らせます。五つの病とは、別な言葉でいえば意・執・個・我などの惑いといってよいでしょう。聖人である孟子はこの四つの惑いにはかかわりがありませんでした。それが聖人たるゆえんです。しかしわれわれ凡夫は、なんとかしてこれらのものを振り払い、持っている明徳を一日も早くあきらかにしなければなりません。そこで、近頃わたしはこんなことを考えはじめたのです。
四書五経を読むのにも、訓詁や、迹(セキ)を訪ねる道を省いて、一挙に心に迫るべきではないかと・・・・・・」
やや難解に思えるかもしれない、藤樹の「心学」への道の入り口の言葉でした。
結局この話を聞き蕃山は入門を許されます。
藤樹の入門許可の心です。
「熊沢左七郎(蕃山)は、わたくしと共に真の武士とは何かを学ぶ。
わたしも同時に学ばせてもらう。
同時に熊沢左七郎に、わたしが追求する処士とはなにかも
学ばせる。そのことによって、今後佐七郎が再び政治の座に戻れば、
民のために、本当によりよい政治がおこなえるだろう」
と信じたからだ。この与右衛門の期待は、熊沢佐七郎によって
見事に実現される。が、それにはしばらくの月日が必要だった。
ただ蕃山は蕃山流の陽明学であり、藤樹の真の心を知ることは
まだできなかった。
藤樹41歳の逝去の後に、藤樹の儒教式墓を詣でる機会があり、
その時に蕃山は藤樹の真の心と力を知ることになるのです。
「憂きことのなおこの上につもれかし限りある身の力ためさん」
江戸時代の儒学者『熊沢蕃山』の歌である。
この歌は「なやみごとよやってこい。
自分の力には限りがあるが、
せいいっぱいがんばるぞ!」という意味である。