ある道のり20~いのちの実相 3 心の学び~

娘の発病がきっかけとなり、 それまでの人生に疑問を感じた私に届いた
勉強会の誘いのままに申し込みをしました。
生き方、経営の仕方が知りたい。

どうして普通に生きていて、娘があのような病になってしまうのか。
なぜそれが私たちの娘なのか。

私は4人の子供たちに勉強を、しなさいと言ったことは一度も
ありません。また学校の通知表を持ってきた時は、成績のことには
一切触れず、通知表の後ろの先生の文章を読み、何かみんなのために
できたことや、すこしでも成長したことを大げさにほめました。
それが本音でしたから。

気がつけば、母にされたようにようにしていたのでした。

一年の初めのお正月には、みんなで朝餉のテーブルにつき
子供たち一人ひとりのその年の目標を聞きます。
その目標にみんながエールを送ります。
心を新たにする一年の初めを、少し改まった気持ちで迎える
家庭の小さな儀式でした。

みんな少し緊張してまじめな顔をしていました。
子供たちは、一人ひとりの個性によってそれぞれが
思うままに生を送っていると、いまでも思っています。
親がすることといえば、ただそれを見守るしかありません。
よく言われる言葉「子は親が言うようにはしない。
親がするようにする。」
まさにそのとおりで、これはきっと親子という関係以外にも
成立することのように感じます。

今までどおりではダメ! もっと本質的なことを知らなくては
生きている意味さえなくなる。
願いが、人生とは何か、人間とは何かの本質の学びと
解明に移っていきます。
生活が一変しました。

実際的な仕事は、すべて社員の方に任せ、まず自分の能力開発と
新しい何かを始める糸口探しが始まりました。
仕事中心の生活を変え、間口を大きくしてすべての方から学びたいと
強く思うようになりました。
それまでの自分にとっては、まったくの大変化でした。

1.心を変えたい。
2.人間とは何かを知りたい。

その二つが願いでした。
その時代まで続いていた夜遊びにはだんだん興味が薄れていきました。
でもその夜遊びの中で人生の転機が待っていようとは・・・。

何か心の勉強をしたい。
その頃はやっていた能力開発セミナーはいくつもありました。
その中でもふたつに絞っていて、誰か紹介者を探していました。

経験のある紹介者がいないと参加ができないシステムになっていたのです。
紹介者を探す毎日でしたが、ある夜遊びのスナックでポロっともらした
言葉に同業者の社長さんが反応しました。

「そこだったらボクが紹介しますよ。凄いですよ!人間のオーラが見えますよ。!」

酔っ払ってはいたけれど、完璧に渡りに船状態でした。
(もうひとつのセミナーはその後事件となったセミナーでした。
後に何かに守られていることに感謝しました。)
その晩は嬉しくて嬉しくて何かが大変化する予兆を感じ取っている
自分を見ていました。

セミナーの内容については、お約束で記述できませんが
望めば3度の機会を与えられ、およそ90日間の研修です。
ほとんどが今ある場所で行うことです。

自分が主人公の人生をリーダーシップをもって
積極的に生きる方法をトレーニングによって確立するのです。

宿泊の研修も一部あって、その体験の中で、紹介者の言っていた
人間のオーラー(虹色)を見ました。

さらに私たちの普段見ている光景の実体も感じ取ることができました。
(愛に満ちている)
それができた理由は、自分の持っている厄介で硬い自我が
ある方法で打ち破られたあとにオーラが見えたり現実は幻想と
感じ取れたりしたので、自我の崩壊だと思っています。

「人にもものにも愛をもって接し、愛を与えて与えて与えつくすこと。
そして何につけても恐れずに積極的に行動すること。」

そのふたつがこのセミナーでの強い学びであったと感じています。
このことを持続する心でやり続けることが人間にとって
いかに大切かを学んだ90日でした。

その後も(25年後の今でも)崩れない心を保つためにルーティンとして
毎日行っていることもあります。

それでも人間はこの世界に住む限り、逃れられない自我による
現実を見せられます。 やっかいなものです。

娘はやや落ち着き、大学検定も合格します。
ややあって料理学校に通ったり、アルバイトを始めたりしています。
この頃は、環境に適合できないとうつ気味になり、継続できないようになり、
眠れず入院となりました。

このパターンを何度か繰り返します。
次第にうつと躁の繰り返しになります。
躁になると通常の人間的な分別は消えるのです。
そんな時には、目覚めたふりをしている中年男の自我を揺さぶります。
深い深い怒りが彼女に向けられるのです。

このことを幾度も幾度も体験させられます。
すべて「自分」のことだったと気づくまでのことでした。

それでも深い深い怒りは静かに硬く眠っていて、娘の息の引取りの
直前までその存在を知らされるのです。

娘さえも自分が作り出した幻想だと気づくのに、どんなに長い深い
時間を要したことでしょう。 時間とてないものなのに。

こうした時間や空間や現実という幻想を、そうだと納得せざるを得ない
体験や出会いが、その後に始まっていくのでした。

それは「衣冠之会」との出会いでした。