土木会社に勤めて、4年間が経ちました。
最後の現場は、日光と宇都宮を結ぶ道路です。
その完成を見る頃に人生の分岐点となる決断を
迫られます。
家内は結婚で、お嫁さんとしてM姓になっています。
家内の家の父親の仕事には全く関心がないまま、
少し気になる話がちらちらと出てきていたのです。
その現場の時に第一子の娘が誕生します。
家内はやっと家からの呪縛から離れ、自由に
自分の人生を謳歌するつもりで、解放された喜びに
満ちていたようです。
名古屋では大変な出来事が進行していました。
山善の創業者の山田善兵衛祖は南米やフロリダで働き、
資金をためて帰国後、そのころ有望といわれた建築の資材関係の
会社を設立しました。
実質に会社を切り盛りしていた善兵衛祖のつまEさんが
亡くなります。
亡くなる前にEさんが社長に選んだのは本家の父ではなく、
父と共同経営のようにしていたTさんでした。
Tさんは実力者で、先端的な手法で建築板金の会社を
業界でも特徴のあるものに育て上げていました。
妻Eさんの見立てはあっていました。
父は専務として経理を担当。
そして本社と二つの支店を設け、規模も拡大していました。
Tさんは東京にも出かけ、先端的な経済の方向をいつも
見ているとても優秀な経営者でした。
こちらの家には二人の娘。
姉はM姓となり嫁いで、土木工事現場を渡り歩いています。
妹さんは当時未婚。
跡継ぎはいない。
Tさんには息子さんがあり、次期社長と目されていました。
そんな時期に会社の社名変更が実施されます。
父はもちろん反対し、山善からの営業譲渡と主張し
民事係争になります。
このままいけば善兵衛祖の創業した山善が消える。
父はもう半ばあきらめているようでした。
考えました。
T建設にいても、いくらでも代わりの人材はいる。
山田家には男はこちらだけ。
父の思いを考え、人間としての選択でした。
そして名古屋の社名変更なった父の会社に入りました。
建設会社で「ここには長くはいないだろう」の直感通りとなりました。
当時、土木現場の毎日の出来高(売上)は日平均で200万円くらい。
それも社員10名くらいでです。
こちらに来て扱うものの単価は最低で50銭。
あまりにも異なる数字に唖然としましたが、
結局利益計算によれば同じことです。
経営者の二人が係争中となり、社員さんも
二つの勢力で揺れ動きます。
しかし圧倒的に有能な社長の側につく方が
多いのは、当然と思われました。
3年間この会社で建築板金の基礎から学び、
金属のロールによる成型も基礎からでした。
支店から本社に配属され、営業として出張するようになっていました。
ある日社長の席に呼ばれました。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。」と
遠回しに在籍拒否勧告を受けた気がしました。
父に言いました。
「戦うことは何も生みません。
新たに山善の名前で会社を作りましょう。
ここを出ましょう。」
父としては重い決断と感じます。
でも善兵衛祖の創業社名が復活します。
希望への道です。
湧き上がる自らの気持ちに正直に生きよう。
いつでもそうしてきました。
大変な道かもしれないが、自分たちの思う方向へ向かうことができる。
強く大きな、そして苦難の道が始まりました。
T社長には、先端的な経営手法を見せていただき
感謝でいっぱいになりました。
これは父には申し訳ないですが、本当の気持ちでした。
そのT社長と父はすでにこの世になく、
新しい会社は新天地で、旧会社の社員さんお二人とともに第二創業となりました。
およそ30年後、先に他界したT社長の葬儀に父とともに出向きました。
そしてその数年後、父の葬儀には、後継者の息子さんと義理の弟さんが
参列いただき、手を合わせていただきました。
この時長い長いわだかまりが溶けていきました。
養嗣子となって40年。
家族そろって養子となり、山田姓。
父は温厚が生きているかのような素晴らしい人でした。
争いを好まず、口にはいつも微笑みをたたえ、
怒った姿はほんの数えるほどでした。
魂の実の父でした。