2801「青空ひろば」2022.8.27 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。

748 2022.08.13 ~756 2022.08.21

道場にいた時、Kという雲水(修行僧のこと)さんがいました。

Kさんはカトリック信者でした。

禅僧でカトリック信者だ、などというと不思議に思われるかもしれませんが、禅は宗教以前の真理、むしろ宗教がソコから創造されてくる根源的なイノチの有りようを追求するのですから、Kさんがカトリック信者であっても、ちっとも不思議ではないのです。

私がいた寺にも、キリスト教関係の、特に外人さんが沢山いましたし、通いで坐禅に来ている外人さんも多かったです。ユダヤ教の人もいました。

私も、禅の真理が分かるようになって、一気に他の宗教の神話や教理の意味がハッキリ見えてきました。

他の宗教の尊さ、有りがたさも見えてきました。

また、そうでなくっちゃあ、禅の語録しか理解出来なくて、他宗を馬鹿にしたり、排斥するようでは、とても真に禅の悟りが得られたとは言えないのです。

私が、聖書の一節を引用したり、念仏や法華経を説いたり、さらに黒住さんや金光さん、天理教などまでも解説したりするのは、私には当然で、自然なことなのです。

白隠さんでも、道元さんでも、今の時代に生きておられたら、当然のこと私のように振る舞われたはずです。

さて、Kさんのことですが、ある日、たくはつ托鉢(一軒づつまわって、お金などの施しを乞うこと)で町に出たときに、教会に出くわしたので、入っていって、僧侶に告解(カトリックで、犯した罪を司祭を通して、神に懺悔する行為)をお願いしたのです。

雲水姿のKさんを見て、カトリックの司祭さんも、さすがに抵抗を感じたようでしたが、結局許可してくれて、無事告解できたそうです。

このKさんは面白い人で、もとは高校の数学の先生であったそうでが、辞職して、大阪の愛隣地区に入って奉仕活動しました。

それから、全国放浪の旅に出ました。お金をまったく持たずに出発し、お腹が空いたら、目についた家に入って、玄関で「お腹が空きました。ご飯を下さい」といったら、たいていの家で、食糧を頂けたよと、Kさんは言っていました。

その旅の途中で京都の道場にたどり着いて、出家したわけです。

さて、カトリックには、このように懺悔のシステムがあるわけです。そのおかげで、カトリック信者が多い地区では、心の病の率が低いのだそうです。

罪をいつまでも自分の心に抱え込んでいる必要がない。辛くなったら、重荷を神に預けてしまえばいいからですね。

仏教にも、懺悔(さんげ)ということはあって、初期の頃の仏教では、罪を犯したら、僧の集会で告白して、許しを乞うという儀式があったそうです。

大乗仏教では、全員の前で告白するという必要はなくて、懺悔の際には、仏や菩薩さまの絵や像や写真の前に坐って、犯した罪を告白して許しを乞います。

それから、立ち上がって懺悔文(さんげもん,禅の会でいつも唱えていますね)を唱え、読み終わったら五体投地(礼拝)します。これが1ラウンドです。さらに、もう一度立ち上がって、懺悔文を読み、礼拝し・・・、これを繰り返します。

懺悔文を紹介しておきますね。五体投地の方法はYouTubeなどで調べてください。

懺悔文(さんげもん)

我昔所造諸悪業(がーしゃくしょーぞう しょーあくごう)

皆由無始貪瞋痴(かいゆーむしー とんじんち)

従身口意之所生(じゅーしんくーいー しーしょうしょう) 

一切我今皆懺悔(いっさいがーこん かいさんげー)

<訳>

私(人類全体を代表して)が作ったさまざまな悪業は 

すべて限りない昔から連綿と続いてきた貪りと怒りと愚かさから生じてきました。

それらの悪業は、身や言葉や心によって生じます。

それらの悪業の一切を、私(人類全体を代表して)は今懺悔します。

この懺悔は何回とは決まっていなくて、自分が納得できるまで、罪が解けたと実感出来るまで、何回も、何日間でも、何年間でもやり続けるのです。

天台大師の『天台小止観』には、懺悔行のなかで、こういう心理的体験をしたら、罪が神仏から許された証拠だと、いくつかの例が紹介してあります。

(1)心や身が軽くなって、光や透明な空気にでもなったような感じがする。

(2)ぐっすり眠れるようになる。

(3)理由なしに、いのちの内奧から、フツフツ喜びがわき出してくる。

(4)人やモノや、出来事の善意に包まれている自分を感じる。

(5)自分を含めてすべてのモノが、存在を許されている、存在することが全体のい のちのために、必要なんだと分かる。

(6)自分の過去の体験も、進化のためにどうしても必要な体験であったんだと分か    る。

(7)最後に、罪は本来無いんだと分かる。

すごいですね。これはまさに悟り体験で、ここまでいかなくても、自分で納得できるまで懺悔行をすればいいのです。

松居桃楼(とおる)先生が面白い懺悔法を紹介しておられます(『微笑みの禅』潮文社)。

先生は、この(1)から(7)までの、罪が許された状態の記述を読んで、これは要するに、心身の凝り、固まりが解けた状態のことなんだと捉えたのです。

『罪』は『積み』で、『詰み』ですね。要するに、『罪』の状態とは、心と体にこだわりや許せない部分があって、それで、身体や心の特定の箇所(その場所は罪の種類によって違う)に固まり、血液や栄養分がうまく流れていかない箇所が出来る状態なわけです。

ですから、『罪』がゆるされたとは、心身がほどけて、柔軟になり、ゆるくされた状態となった時です。つまり、(1)の状態さえ実現できれば、(2)から(7)までは、自然と体験できるものなのです。

ですから、懺悔で大切なのは、心身をほどくことで、たとえば、先ほど紹介した大乗仏教の懺悔法でも、このような礼拝行を繰り返せば、自然と汗をかき、新陳代謝が活発となり、筋肉などの緊張部もほぐれてきます。自ずと心身柔軟となりますから、『罪』が解消するのです。

松居先生は、銭湯にいって床に大の字に寝る。すると、心身がほぐれて、宇宙と一体である。善意につつまれて生かされている自分であると実感出来る。これが私の懺悔法だと言っておられて、面白いと思いました。

私の場合は、坐禅が懺悔です。

私の坐禅は、ただ坐る坐禅です。ただ、正しい姿勢を目指して坐ります。しかし、なかなか いい坐禅になりません。どこかに、こだわりがあり、人や自分に許せないモノがあるから、それが坐禅の姿勢の歪(いびつ)さに現れるのです。

ですから、体が微妙に、前後左右に傾きます。それに気づくたびに、もとの姿勢にもどします。

体のある箇所が緊張していることに気づきます。そうすると、すぐその箇所の緊張をほどきます。そういう微妙なチェックを重ねながら、ただ坐っているのです。これは、努力ではありません。ムダな抵抗をやめて、一番自然で楽な体勢に復帰するだけだからです。

そういう坐禅を何十年と重ねていくうちに、坐禅以外の場面でも、違和感が生じれば、その原因となっている、体の緊張している箇所にすぐ気づき、すぐそこをほどくことが出来るようになってきました。そうすると、『罪』を『積み』にし、『詰み』にこじらせる前に次々、ほどいてゆけるようになります。

ですから、私の坐禅は懺悔法でもあるのです。(完)

747 2022.08.12

南泉禅師が、道場に帰ってくると、弟子達が猫のことで争っていました(いったい、どんなことで争っていたのか、記録には残っていないので不明)。

南泉は、その猫を取り上げていいました。

「お前達、この場において、何か一言、言ってみよ。言うことが出来たら、この猫を救おう。言うことが出来なければ、斬り捨ててしまおう」

弟子達は、誰一人として答えることが出来ませんでした。

南泉はついに、その猫を斬ってしまいました。

夜になって、南泉禅師の一番弟子であった趙州が道場に帰ってきました。

南泉は昼間にあった猫の事件を趙州に語りました。

趙州は、自分が履いていた靴をヒョイと頭に載せて、歩いて部屋から出て行きました。

南泉は言いました。「お前がその時、その場にいたならば、猫を救うことが出来たろうに」(以上、碧巌録第六十三、六十四則、無門関第十四則)

(大敬コメント)いいなあ、趙州さん。カラッとして、爽やかで、いさぎよい。

もちろん、南泉さんのような、争いの根を根源から断ち切る、苛烈な禅も大切だと思いますが、私は好きにはなれないですね。

趙州さんの、『ヘッ、問題を断ち切る必要なんてないんだよ。始めから問題なんて、どこにもないんだからね』、そんな趙州さんの禅がいいなあ。

泥んこ靴をサッと脱ぎ

ヒョイと頭に載せてゆく

一番下が、一番上で、

一番上が、一番下

何が何やらさっぱり分からん

分からんなりで、スタスタ歩く

その先に、夏の青空

モクモク、モリモリ、真っ白の雲

743 2022.08.08 ~746 2022.08.11

易経の勉強も少しずつやっておきましょう。何といっても、易経は「人生の王道」を示してくれます。

まずは、このご時世にふさわしい「水山蹇(すいさんけん)」という卦から入ります。

「蹇(けん)」とは、「行き悩む」という意味の漢字だそうです。

寒さに足が凍えて進めないという状態を表しています(「蹇」は寒+足という構成)。

前方に進もうとするのですが、深い「水(海)」があり渡れないのです。

また、高い「山」があり、その険しさが前進を阻みます。

無理に進もうとすれば、遭難の怖れが生じてくるでしょう。 

ですから、成否が五分五分だけれども、思い切って断行しようなどと蛮勇を発揮してはいけません。行くべきでない時に、行くことを断念して引き返すのも素晴らしい勇気なのです。

(水山蹇(すいさんけん)」の卦の続き)

平坦な道、暖かい方向の安全が見込まれる道であれば前進してもいいのです。

これは正義なのだからと我を張って行動してはいけません。

先輩や智慧ある人の意見を、謙虚、素直に受け入れて、行動を決定することが必要です。

そうすれば、多方面から支持者が現われ、協力、援助が届けられ、やって来るでしょう。

前へ、前へと、外側に行くことばかりに気をはや逸らせることをやめて、一度、内側を振り返ることにしましょう。

(水山蹇(すいさんけん)」の卦の続き)

あなたに恵まれているものは何と多いことでしょう。そのことに気づいていますか。

家族、仕事の同僚、禅の会(しあわせ通信)の仲間…、そのように、自分に恵まれているものの多さ、支えてくれている存在の有り難さに気づき、それらとの関わりを誠実に、これまで以上に、思いやり、心遣いを丁寧にして、お付き合いしてゆきましょう。

世界はあなた自身の有りようを映し出す鏡のようなものです。

あなたが関わりのある方々を大切に思い、いたわる気持ちをもてば、あなたも、たくさんの人に大切にされ、いたわりや善意のサポートを提供してくださる人も増え、次の活動期に向けて、しっかりした地盤が出来上がるでしょう。

今は地道に徳を積んで、身内を固める時期なのです。

(水山蹇(すいさんけん)」の卦の続き)

今年は、一見、厳しくて、何事も思い通りにならない苦しい一年だと感じられるかも知れませんが、それは冬をむかえた落葉樹のようなものなのです。

いのちの内側では、来る春(活動期)に向けて、しっかり内側を充実させる営みが黙々と続いているのです。

今年と来年は、そんな、地味ですが、とても大切な一年となります。

豊かな実りを末永くながくもたらしてくれる「基礎となる土壌」をしっかり整える一年にしましょう。(完)

742 2022.08.05

いのちの全部を「今」に託します。神さまの風に身を任せます。

そうすれば、紙の上に美しい人生の詩がつづられると信じて。

741 2022.08.04

僕が僕であることが世界の根っこだ。

ブッダもイエスも その根っこから生えだした 花であり 実なんだ。