高見澤 潤子 劇作家
兄に感受性を養い育てるにはどうしたらいいかと聞いた時、兄はこう答えた。
「始終、怠ることなく立派な芸術をみることだな。そして感じることを学ぶんだ。立派な芸術は、正しく豊かに感じることをいつも教えている。先ず無条件に感動することだ。ゴッホの絵だとかモーツアルトの音楽に、理屈なしにね。頭で考えないでごく素直に感動するんだ。その芸術から受ける何とも言いようのないわからないものを感じ、感動する。そして沈黙する。その沈黙に耐えるには、その作品に強い愛情がなくちゃいけない」
感じるには、理解力とか判断力とかいうものではなく、心の才能と言うものが必要なのである。子どものような純粋な謙遜な気持ちがなくてはならないのである。
いろんな知識を得、経験を重ねると、こういう素朴な心を、私たちはみんな失ってしまう。人間は心の底から感心し、感動しなければよいものは創れないし、よい考えも起こらないと思う。また、個性について兄がこんなことを言ったのを覚えている。
人間は、自分より偉い、優れた人に逢ったら、その人をこころから尊敬できるようなナイーブなものをもっていなくちゃダメだ。他人への信頼と無私な行動とが一番よく自分の個性を育てるものだ」
私はこの言葉を聞いた時、正直なところ、本当にそうなのかと疑問を持った。個性というものは自分に与えらているものだから、自分が育てなければならない。と思っていた。しかし年をとるとともに、この言葉が真実であることが分かってきた。個性を育てるのにたいての人は私のように誤解して間違った方向を取ってしまう。
ことに、人を尊敬するとか、他人を信頼し、無私になることは返って自分を殺してしまうと思って、俺が俺がという気持ちを持とうとする。そうすれば、ますます個性を育てることは難しくなるのであろう。兄のいうように「心から尊敬できるナイーブなもの」が大切なのである。私は兄から随分助言を受けた、今から考えると頭が下がるほどありがたい、尊い助言であった。親身になって言ってくれた助言を愚かな私は親身になって聞かなかった。ちょっとは努力してみたが、長く続けようと努力はしなかった。助言について兄は書物の中で次のように書いている。
「どんな助言も人に強いる権利はない。助言を実行するしないは聞く手の勝手だ。それよりもまず大事なことは、助言と言うものは決して説明ではない。分析ではない。いつも実行を勧誘しているのだと心して聞くことだ。親身になって話しかけているとき、親身になって聞く人が少ない。これがあらゆる助言の常に出会う悲劇なのだ」兄が人に助言をするとき、兄自身が実行しなかったものは一つもなかった。しかしたいていの人は私と同じように、いい助言でも、真剣にその通り実行しないのである。「実行を勧誘しているものだと覚悟して」聞かないからです。